専門家はダミー本、洋書による「雰囲気づくり」を批判
公共図書館において、ダミーや装飾用の洋書を配置することは、果たして適切なのか。「まちづくり」や「ひとづくり」に役立つ図書館について全国で講演を行い、現在は大学で図書館学を教えている、愛知県田原市図書館元館長の森下芳則氏が学生を相手に講義した内容を、ご本人の許可を得たので紹介したい。
まずダミー本について、学生たちは「雰囲気づくりにはいい」「(軽いダミーを)高い位置に置くのは、安全対策としては合理的なのではないか」という感想を述べたが、これに対して、森下氏は次のように解説している。
「雰囲気は、建築の造形と、その中で行われる営みによって生まれるものだと思います。紀元前25年頃の世界最古の建築理論書『ウィトルーウィウス建築書』では、建築の要件として『十分な強さをもって、安全である』『求められる機能を充たしている』『造形的に芸術性豊かなものである』という3つを挙げています。建築としての合理性があって、造形の美しさの追求が、その建築物の魅力になるのです」
近世の大広間図書館については、「利用のためのものではなく、あくまで権力を誇示するための図書館」との教科書の記述を紹介したうえで、こう断じる。
「高い書架は、権威の誇示という点では合理的ですが、図書館の利用のためではありません。現在でも、高い書架は知識の殿堂というイメージがありますが、いまや公共図書館は知の殿堂ではなく、日々の暮らしの中で多くの人に利用されるためのものです。高い書架も、建築物としての合理性がなければ、ただの背景、芝居の書割(舞台の背景画)にすぎません」(森下氏)
さらに、「雰囲気づくりが目的ならば、壁紙でもよいのではないか」という学生の意見に対して「同感です」と答える。問題は、ツタヤ図書館が「なぜ壁紙ではなく、お金をかけて高い書架をわざわざつくったのか」にあるとして、こう指摘する。
「4メートルは、大人が手をのばした高さの約2倍で、踏み台や梯子がなければ上の段には手が届きません。CCCが指定管理者になる前の武雄市や海老名市の図書館には、そんな高い書架はありませんでした。しかし、実用性のない高い書架は、ツタヤ図書館にとって必要だったのです」
ツタヤ図書館では、なぜ高い書架が必要だったのか。森下氏は、このように推測する。
「CCCが行う新刊書や雑誌、文房具の販売と、スターバックスコーヒーのためのスペース、そしてかなり広いスペースを図書館内部に確保するために、書庫を潰して開架スペースにしたのではないでしょうか」(同)
また、開架スペースと書庫の使い分けの必要性を、こう説いている。
「図書館は本を提供しますが、ほとんどの利用者は、本という“物”ではなく、その中身、コンテンツに用があるのです。さまざまな出来事や流行のために、図書館の蔵書、コンテンツは早いスピードで陳腐化します。図書館の蔵書には、フロー(常に更新が必要な資料)とストック(比較的長く利用される資料)があります。図書館は、よく利用されるフローの資料が開架にないと魅力がありません。一方で、ストックの資料を提供することも図書館の大切な役割です。図書館は魅力的な開架スペースと書庫の両方が必要なのです」(同)
森下氏は、ツタヤ図書館がすべてを開架にして、書庫を潰したことのデメリットについて指摘する。
「書庫のない図書館は、毎年新刊書を受け入れるとともに、必要な本を保存するという資料管理ができません。書庫のない図書館は、永続的な図書館活動という意味で、欠陥のある施設です。CCCは、図書館運営のための指定管理者ですが、その目的外の営業のために、書庫を潰し、書庫にあった古い資料を収容するために高い書架を設けたのです。
それまで書庫にあった古い本も開架に配架されるようになりました。高層書架にダミーの本を置くかたわら、収容しなかった郷土資料や視聴覚資料などを廃棄したことも問題です。
さらに、指定管理のツタヤ図書館としての再出発にあたり、系列の古書店から大量の古本を市の予算で購入しています。図書館は、まるでツタヤの“引き立て役”のようです。高い書架とツタヤ図書館の関係は、決して『素朴』ではないのです」(同)
ツタヤ図書館をつくった自治体の役人や議員たちは、審議会等の場で、こうした図書館の専門家の意見に真摯に耳を傾けることは一度もなかったのだろうか。
(文=日向咲嗣/ジャーナリスト)