この内紛は、もちろん希望の党でも顕著になることは避けられない。それに加えて、希望の党は、小池都知事の国民的人気が大きく翳り、都政の運営にさえも黄色信号が出る状況だ。もっとも小池都知事は、国政での敗退を滞在先のパリであっさり認めた。その上で、党首としての政治的責任をあいまいにしたまま、同党の国会議員たちに国会対応を丸投げするかのような発言も残している。すでに希望の党は、小池氏の政治的野心の前ではただの重石でしかないのかもしれない。そうだとすれば、希望の党はまさに求心力を失い、分裂は加速化し、同党に期待したいくばくかの国民の気持ちをさらに踏みにじるだろう。
全体主義的ともいっていい政治状況
希望の党が今回の総選挙に残した教訓はほかにもある。特に注目したいのは、もともとの民進党を丸ごと吸収しようとしたその政治手法である。希望の党は改憲、集団安保法制賛成などを旗印としている政党である。それに対して、民進党は改憲賛成派と反対派が共存し、また集団安保法制については党として反対であった。
そのような異なる政治的イデオロギー、つまり右から左までを一気に飲み込み、それをリーダーの政治的カリスマでごまかして、国民的な支持をとりつけて政権を握るという手法である。政治家たちだけが統合されるだけではない。希望の党の結党当初は、反安倍系のメディアはこぞって小池新党に期待してその人気を煽った。このようなメディアの人気煽動によって、当初の小池新党への期待はとてつもなく大きかったことを忘れてはいけない。ここにメディアと安易な野合政治との合体によって、異常に膨れ上がった政治勢力。まさに全体主義的ともいっていい政治状況が簡単に生まれることが、今回の希望の党の事例からもわかった。
ただし、さすがに国民の野合批判や、また小池氏の左派勢力への「排除」発言などで、反安倍系のメディアが小池批判に転じることで、一気に全体主義的な政党の誕生は土壇場で避けられた。
だが、このことは重い教訓を残していると筆者には思われる。国民的な人気をもつ政治家が、特定の政治勢力(今回は“アベ政治”)を批判対象として祭り上げ、それに乗じて政治的イデオロギーを超えて全体的に結集して、独占的な権力を握る。このような状況は、戦前でも大政翼賛会的な状況として近衛文麿政権のときにみられたものである。このような全体主義的な政治状況の果てに待っていたものは、国際的孤立と経済的失敗、そして何よりも戦争の惨禍であった。もちろん戦前と現在は国際状況も大きく異なる。日本が戦前のようなコースをそのままたどることはないと信じたい。