上下関係の厳しさとあいまって、下位の力士は“体で教える”指導に感謝しなければならず、その後上位に上がった時には、過去に自分が受けたのと同じようなやり方で若い者を“指導”することになり、暴力は連鎖する。日馬富士も、そうした環境の中で17年間を過ごし、横綱まで上り詰めた。過去には、彼自身も先輩力士から“体で教える”指導を受けたこともあるのではないか。問題発覚直後の彼の口から、貴ノ岩に対する謝罪の言葉が出ず、事件の原因を問われて「弟弟子を思って叱ったことが……行き過ぎたことになってしまいました」という説明になるのも、先輩から後輩への生活指導には暴力が伴うのが当たり前の感覚だったことを示している。
事件の翌日、貴ノ岩のほうから日馬富士に謝罪したというのも、先輩から後輩への暴力的指導をありがたく受け入れる風潮に、被害者を含めた角界の人たちが馴染んでいたことの証左ではないか。貴乃花親方が断固として警察沙汰にしなければ、当事者の“和解”でうやむやに終わっていただろう。
先輩力士に厳しい稽古をつけられて後輩が育っていくという相撲の世界であっても、稽古場以外において“体で教える”体罰を絶ちきる最低限のコンプライアンスを打ち立てることは必要で、それがなければ、また暴力は繰り返されるのではないか。
そのような業界に、親は我が子を進ませたいと思うだろうか。ノンフィクション作家の高橋秀実さんの著書『おすもうさん』(草思社刊)によれば、力士の入門動機を尋ねるアンケートによれば、6割が「周囲の勧め」だという。先輩による体罰が横行する世界への入門を勧められても、本人や家族がその気になるか、大いに疑問だ。ただでさえ少子化が進む時代、これでは角界の明日は明るくないのではないか。
競技は違うが、箱根駅伝を3連覇した青山学院大学の原晋監督は、こう言っている。
「僕は今、ライバルは早稲田でもなく、陸上界のどこのチームでもないと思っています。ターゲットは野球界やサッカー界。このままだと、元気のいい身体能力が高い子は、みんなサッカーや野球に流れてしまう。そうなると、陸上の競技人口は減り、競技レベルも下がる」
格闘技系では、ほかに柔道やレスリングなど、オリンピック種目もある。そういう中で、暴力をなくし、角界を素質ある若い人たちにとって魅力ある世界にすることは、相撲が大事なら、もっと力を入れて取り組むべきではないか。
ナショナリズムが排外主義に
一連の白鵬叩きの中には、排外主義のにおいも漂う。白鵬が巡業先で背中に「MONGOLIAN TEAM(モンゴリアン・チーム)」と書かれたジャージを着ていたことが報じられると、ツイッターには「相撲は日本の国技」「白鵬は引退してモンゴルに帰れ」「神事である相撲は日本人だけでやるべき」「日本の国技にモンゴル人はいらない」などという言葉が飛び交った。
こうした論者は、やたら相撲が「国技」であることを強調するが、「国技」とはなんだろう。国旗や国歌のように、「国技」を定めた法律があるわけではなく、文部科学省などの国家機関によって認定されているわけでもない。相撲が国技である根拠を示した古い文献もない。前出の『おすもうさん』によると、相撲が国技とされたのは、1909年(明治42年)に東京・両国に相撲の常設館を設立した際、その命名を相談された作家の江見水蔭が「国技館」と名付けたことが始まり、という。建物の固有名詞が、「いつの間にか抽象名詞に変わって(中略)すっかり定着してしまった」(同書より)とのことだ。