皇位継承について闊達な議論をすべき
本書における「平成皇室論」の部分は、そういう観点から書いたもので、ぜひ闊達な議論がされることを希望します。
内容は、平成の皇室が歴史のなかでどういう位置づけにあるのか、あまり議論はされないのですが、退位問題以前から平成の皇室がかなり大胆に政治的であったことの是非、男系堅持か女性宮家も認めるのかといった議論もされているが、たとえ彼らがそれぞれ主張しているようにしても、危機的状況に変わりはないことなどについて、きちんと議論をすべきだと提案しています。
たとえば、女性宮家といっても今上陛下の孫である3人の内親王だけを対象にしたものでは十分な解決になりません。悠仁さまも含めてたった4人の子孫が、確実に将来も続く可能性は客観的に考えて五分五分でしょう。
逆に、旧宮家を復活させただけでも、同じことがいえます。イギリスなど何千人もの王位継承候補者を用意していますし、日本も数十人は必要です。
本書前半の「歴史的考察」では、時代ごとにどういう哲学で皇位継承が行われたかを丁寧に分析しています。それを振り返ると、昔の人は現代人よりはるかに思慮深かったことがわかります。
また、古代については、保守系の人が言いたがる「神武創業以来の万世一系」とか、「万世一系など嘘でどうでもいい」とか言う左派系の人の極端な議論を排したものです。
「日本書紀」の記述を合理的に補正していけば、3世紀半ばの卑弥呼より少し後の崇神天皇によって大和が統一され吉備や出雲あたりまで勢力が伸びたのが、いわば日本国家成立であり、その崇神天皇の10世代ほど前の先祖が九州からやって来て、小さい領地を手に入れて橿原市や御所市の辺りを支配する小豪族になったということでないかという解釈です。
零細企業としての創業者が神武天皇で、上場企業に育て上げたのが崇神天皇ということですべて解決すると思っています。
ちなみに、多くの人が興味を持つ邪馬台国ですが、「日本書紀」によれば、大和朝廷が北九州に初めて進出したのは仲哀天皇の時で、これの実年代を推定すれば4世紀中盤です。それは、卑弥呼の時代の1世紀後です。つまり、大和朝廷が北九州に現れたのは、北九州の有力者だった卑弥呼が死んで百年足らず後のことで、誰も話題にしなかったというだけのことです。
その後の歴代の継承についても、当時の人がどういう発想で決定したかを推理しています。
過去の説にこだわらず、合理的にものを考える人にとっては、わかりやすい解説になっていますし、たとえば外国人に皇室のことを説明するようなときにも重宝かと思います。
(文=八幡和郎/評論家、歴史作家)