少なくとも、患者が死亡する状況によって誘発される恐怖と不安がもたらす苦痛に耐えきれない点で、看護師としての適性に問題があったわけだから、それを自覚すべきだった。そのうえで、そういう状況に直面しなくてすむ他の病院や外来だけの診療所などに転職するとか、看護師を辞めて別の職業に就くという選択肢もあったはずだ。そうしていたら、一連の犯行に手を染めずにすんだように思われる。
怒りの「置き換え」
もっとも、自分の勤務時間中に患者が死亡する状況によってかき立てられる恐怖と不安を避けようとしただけで犯行に及んだとは考えにくい。というのも、久保木容疑者は、担当患者が以前死亡した際に同僚らから自分のミスの可能性を指摘されたとも説明しているので、もともと同僚や上司などに対して怒りを覚えていた可能性があるからだ。
大口病院では、入院患者が相次いで死亡した4階で、2016年4月から8月にかけて看護師の服が切り裂かれたり、飲み物に異物が混入されたりするトラブルが起きていた。これが久保木容疑者によるものなのかどうかはこれから慎重に調べなければならないが、もしそうだとすれば、他の看護師に対する怒りをこのような形で表現したと考えられる。
ただ、こういう手法を続けると、自分が疑われるが恐れがある。だから、それを続けるわけにはいかず、怒りの矛先を患者に向け変えて、患者の点滴に無差別に消毒液を入れたのではないか。
このように、怒りを覚えた相手に対して直接怒りを出すわけにはいかないので、その矛先を別の対象に向け変えることを精神分析では「置き換え」と呼ぶ。この「置き換え」によって、別の看護師の勤務時間中に患者が死亡するように仕向けたわけで、復讐願望を満たそうとしたともいえる。
大口病院のように終末期の患者を数多く受け入れる病院では、死亡退院が多く、病状が改善して退院できる患者はまれである。そのため、医師も看護師も、自分たちの治療が実ったという実感を持ちにくく、モチベーションを保つのがなかなか難しい。しかも、このような職場環境はストレスや怒りを生み出しやすい。そういう事情も、点滴連続中毒死事件の背景にあるのではないかと長年の臨床経験から指摘しておきたい。
(文=片田珠美/精神科医)
参考文献
片田珠美『無差別殺人の精神分析』新潮選書