蘇我馬子と聖徳太子
稲目が没すると、その子の馬子が大臣の地位を継承する。仏教の受容をめぐる対立は続いていたが、馬子は587年、王族や諸豪族を集めて、物部氏を滅ぼす。この結果、蘇我氏に対抗できる豪族はいなくなった。
蘇我氏に仕える渡来氏族に東漢(やまとのあや)氏がいた。財政や外交などいくつかの職務領域で頭角を現すが、とりわけ優れていたのは軍事力である。前回の本連載で述べたように、倭国に馬の育成や馬具の生産を伝えた渡来人は、馬を乗りこなす軍事集団でもあった。
東漢氏は蘇我氏の私兵として、重大な局面でしばしば登場する。たとえば592年、蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺するという前代未聞の事件が起こるが、馬子の命により天皇を殺害したのは東漢直駒(あたいこま)だった。駒という名は馬文化と結びついた渡来人に似つかわしい。
馬は飛鳥時代の政治を読み解くキーワードである。馬にちなんだ名を持つ、この時代の有力な政治家は2人いる。1人はいうまでもなく、蘇我馬子である。小野妹子や中臣鎌子など古代の人名の末尾に付けられる「子」は、親愛の情の表現、臣下であることの表示として6〜7世紀に広く用いられた。ここから蘇我馬子も実名は「馬」であり、子は敬称として添えられたものと歴史学者の平林章仁氏はみる。「馬」の名は、蘇我氏と外来の馬文化との親しい関係を示している。
冒頭で述べたように、馬子は飛鳥寺を建立する。わが国最初の本格的寺院である。本尊の釈迦如来像(飛鳥大仏)の作者は鞍作止利(くらつくりのとり)といい、その名の通り、馬具製作を家業としていた。ここにも蘇我氏の馬文化が息づいている。
馬にちなむ名を持つもう1人の有力政治家は、聖徳太子として有名な厩戸王(うまやとのおう)である。聖徳太子には厩(うまや)で生まれたという伝承がある。かつては完全なつくり話と考えられていたが、最近では、潤色はあっても事実とする研究がある。また「厩戸」という名は、太子が良い馬を飼う技術を持つ渡来系氏族と関係が深く、その関連で付けられたとみられている。
実際、太子が幼い頃に住んだ上宮(かみつのみや、奈良県桜井市)や、その後移り住んだ斑鳩宮(いかるがのみや、同県生駒郡)の周辺には、馬を飼う渡来系氏族が多く住み、馬文化が濃密に存在していた。
また、太子の父である用明天皇は、母が蘇我氏の出身であり、太子は蘇我氏の血を受け継ぐ存在だった。その意味でも馬文化とつながりがある。