私たちが普段食べている肉は、スーパーで加工された肉を買って家で調理したり、レストランで料理されたもの。では、これらの肉は、どのように生まれ、どんなところで育てられ、屠畜されるに至ったのか。
文筆家、イラストレーターの内澤旬子氏はそんな興味をおぼえ、見切り発車で廃屋を借り豚小屋建設、受精から立ち会った中ヨーク、三元豚、デュロック3種の豚を実際に飼い育て、屠畜場に出荷し、肉にして食べた。その1年間の体験ルポが本書『飼い喰い 三匹の豚とわたし』(内澤旬子著、KADOKAWA刊)だ。
ペットをかわいがりながら動物を殺して食べる人間の矛盾
内澤氏はこれまでに世界各地の屠畜の現場を取材し、家族で一頭の羊を屠り分け合って食べるところから、1日4000頭の牛を屠畜する大規模屠畜まで、数多の家畜の死の瞬間を見てきた。その取材を通して、「私たちは何を食べているのだろうか」という疑問を持ったため、自らの手で住居の軒先に古屋を作り、豚を飼い、日々触れ合うことで、豚という食肉動物が、どんな食べ物を好み、どんな習性があり、1日をどう過ごしているのか、内澤氏という人間にどう反応するのか、また、内澤氏自信が豚たちを飼ってみて何を感じるのかなどなど、気が済むまで体験したという。
内澤氏は家畜として飼った豚たちに名前をつけた。いずれ屠畜場に出荷して肉にしてしまうのに、愛着がわいてしまうのではないかと思うものだ。名前をつけることは、食べものとして見るか、ペットとして見るかの境界線ともいえる。なぜ内澤氏は名前をつけたのか。
多くの人が厳然と信じているペットと家畜の境界を、内澤氏はあえて曖昧にしてみたかったのだという。名を呼んで、その動物に固有のキャラクターを認めてコミュニケーションしたうえで、殺して食べてみたかったという。それは数十年前の欧米の小規模農家でも、今も経済発展が遅れ、辺境といわれる地域の農家でも、ごく普通になされていたはずのことだからだ。
豚を飼い始めて名前を呼ぶようになった途端に、「ペットみたいにかわいくなっちゃったら、かわいそうじゃない?」と、周りの人たちが騒ぎ出したという。こういった周りの反応を聞けが聞くほど、結局何がかわいそうで、何がかわいそうでないか、何を食べて何を食べないかという基準のもとになるものが、わからなくなる。けれど、ほとんどの人はそれを絶対的なものだと思い込んでいる。そうとなれば、意地でも壊してやろうじゃないか、という気持ちになったのだ。
なんとなく想像はしても、生き物が生まれて肉になり、食卓に上がるまでの過程の現場はどのようなものなのか。畜産農家ではない一般人の内澤氏が豚を飼い、名前までつけて、屠畜場に出荷し、肉にして食べるという体験を綴った本書からそのリアルを読むことができる。(T・N/新刊JP編集部)
※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。