大手証券、ボーナスは300万円、役員が使える交際費は1億円!?
報じる「週刊東洋経済」(東洋経済新報社
/8月11日号)。
日本のバブル時代とは1985年のプラザ合意(超円高時代突入)から始まり、株価のピークとなった89年が絶頂期。その後、下がりましたが、91年頃まではバブルの余韻が残っていました。
株価は92年にバブル崩壊後の三段下げを演じ、日経平均は2万円を割りました。ここから日本はデフレ時代に入ったと見ていますが、あれから今年はちょうど20年です。
さて、前回の宿題。
「僕は、バブルの恩恵は直接受けていないけど、間接的には受けた。では、間接的な恩恵ってなんだと思いますか?」
という宿題を出しました。若い方には日本にバブル時代があったなんて想像もできないかもしれませんが、想像力を養うのも相場師にとって重要なことです(笑)。
この答えは、バブル発生から崩壊後、証券専門紙記者を辞めて、00年に独立するまでの話をするうちにおわかりになると思います。
前回申し上げたように、私は82年に証券専門紙記者になり、この業界に入りました。株に興味があったというのではなく、あくまでも食うためです(笑)。
2時間タクシーがつかまらない時代
先進国の中で最も早く2度のオイルショックを越え、元気のよかった日本。85年のプラザ合意による超円高時代に突入したとき、輸出産業は壊滅してしまうのではないかとショックが走りましたが、この円高も見事に乗り越えました。
その円高を受けて、政府は内需拡大とともに、金融緩和を進め、おカネがジャブジャブあふれ、それが株や土地などの投資(投機?)に流れたのが、80年代の日本のバブルでした。
今では考えられないことですが、当時はタクシーがまったくつかまらない時代でした。
いや、僕はまだ若手のぺーぺーですから、タクシーに乗ることはありませんでしたが、先輩方と飲むと、「おい、岡本。そろそろ帰るからタクシーを呼んでくれ」と命令されます。街を走っているタクシーは、ほとんど全部が「予約車」でつかまえられませんので、タクシーの予約係に電話をかけて呼び出すのです。当時、携帯電話はありませんので、店に置いてある公衆電話を使います。しかし、まったくつながらない。
あるスナックでは、カウンターに電話機が置いてあり、10円玉を用意して、酒を飲みながら電話をかけるのですが、何十回かけ直してもつながらない。
1時間でつながるなら早いほうで、2時間つながらなかったこともたびたびでした。つながったら、先輩はタクシーでご帰還。中には「岡本、ほれ、君もこれで帰れ」と1万円を渡してくれるありがたい先輩もいました。これはバブルを間接的に享受した恩恵の1つの例ですが、ただ、おカネをもらってもタクシーはつかまらないし、予約係に電話してもまったくつながらない。