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法社会学者・河合幹雄の「法“痴”国家ニッポン」第14回

「天皇即位時に罪人が減刑される悪しき制度」という誤解…恩赦という“救済装置”を考える

法社会学者・河合幹雄
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皇居のお堀(Getty Imagesより)

刑事司法からこぼれ落ちた“レアケース”を救済する

 初めに、そもそも恩赦というものが法制度としてどう定義されているかを解説しておきましょう。恩赦は、恩赦法において「行政権によって国の刑罰権を消滅させ、裁判の内容や効力を変更もしくは消滅させること」と定義され、日本国憲法第73条7で「内閣が決定すること」とされています。

 ここで重要なのは、立法・行政・司法の三権分立を原則とする日本国憲法では、刑法・民法上の争いが起こったとき、法にもとづいて裁定する権限は、本来裁判所のみに与えられ、行政の介入を許さないはずなのに、この法律では実質的にそれを可としていること。司法で決定された刑罰を覆す権限を行政に与えているという点で、近代国家のシステムにおいてはきわめて例外的といえる制度なのです。そのように、いったん確定した裁判の結果を行政がひっくり返すことができてしまうという点が、ひとつの原則で説明しきれない、どこか収まりの悪いものとして、多くの国民に違和感と反発を覚えさせる要因となっているのでしょう。

 ではなぜ、そんな変則的な制度がわざわざ作られたのでしょうか。国会などで恩赦の存在意義が議論されるとき、しばしば引用されるのは、戦後間もない1948年に恩赦制度審議会によってまとめられた最終意見書です。そこでは恩赦の意義として、以下の4点が挙げられています。

(1)法の画一性にもとづく具体的不妥当の矯正

(2)事情の変更による裁判の事後変更

(3)他の方法をもってしては救い得ない誤判の救済

(4)有罪の言渡しを受けた者の事後の行状等にもとづく刑事政策的な裁判の変更または資格回復

(4)については次回詳しく述べるとして、(1)~(3)はひと言でいえば、刑事司法のシステムからこぼれ落ちてしまう例外的なケースを救済する手段として必要である、ということです。刑事司法は、条文で厳密に規定されている以上、個別の事案や時代の変化のすべてには対応しきれない。また、捜査・裁判上のミス、あるいは判決が確定していてなかなか再審が行われないようなケースはどうしても発生してしまう。そこをカバーするのが恩赦の意義である、と説明されています。

 たとえば、冤罪の可能性が指摘されている「袴田事件」のような場合。1966年に発生した強盗殺人放火事件の犯人として、死刑判決が確定した袴田巌さんは、半世紀にわたり冤罪を訴え続け、2014年に静岡地裁から死刑・拘置の執行停止と再審を命じる判決を受けて釈放されました。しかしその後、東京高裁によって再審請求を棄却されたため、死刑判決そのものを取り消されたわけではない。彼が真に無実であるかどうかはおくとして、そもそもそれを審査するための裁判自体が開かれないのですから、彼としては刑事司法システム上、もはや打つ手がありません。

 そこで袴田さんは2019年3月、弁護団を通じて静岡地検に恩赦を出願しました。恩赦法では、本人が恩赦を希望して申し出た場合、刑事施設や保護観察所の長もしくは検察官は、中央更生保護審査会に必ず上申しなければならないと定められています。再審請求を棄却された袴田さんからすれば、刑事司法とは別のシステムとして動いている恩赦は、まさに「他の方法をもってしては救い得ない誤判の救済」を期待できる最後の手段なのです。そして、こういうケースがあるからこそ、恩赦の権限は司法ではなく行政(もしくは立法)に帰属していなくてはならないのです。

 また、時代による法令の変化などに対応するためにも、恩赦は有用です。たとえば尊属殺。かつてわが国の刑法には、第200条に尊属殺人罪という規定があり、自分や配偶者の血族を殺した者に対し、裁判では通常の殺人罪より重い刑罰(無期懲役または死刑)しか選択できませんでした。ところが1973年に最高裁で、この刑法第200条は法の下の平等を定めた憲法第14条に反するため無効である、との判断が下された。それにともない、すでに尊属殺人罪で服役中の受刑者に対して、個別恩赦による刑の減軽という救済措置が取られました。もし恩赦という制度がなくなってしまえば、罪を犯した時代によって量刑に差が出るという、それこそ不公平な状況を是正できなくなってしまうわけです。

“不完全な”刑事司法システムを補完するものとしての恩赦

 先に述べたように恩赦というのは、国家権力を立法・行政・司法の三権に分けて独立させている近代のシステムにおいて、行政が司法に対して横やりを入れるという意味でイレギュラーな制度です。しかし、上記のような機能があることを踏まえれば、単にその特殊性をもって、時代にそぐわない、不要である、と言い切ってしまうのは短絡的ではないでしょうか。

 我々が生きるこの近代社会は、“知性主義”的な世界観をベースに成立しています。つまり、「人間は森羅万象あらゆる事象を理性的に、正確に把握して判断できる存在である」というわけです。神の領域――人間には不可知な領域――を排除した知性主義、「世界は理性的に成り立っており、その世界を人間は理性の力をもって把握し得る」との世界観が成立したときに近代は始まり、その世界観のもとに数学、化学、物理学、経済学、そして法学……すべての学問は発展してきました。当然、近代国家システムも、少なくとも理念上はそうした世界観をベースに成立しており、刑事司法もその例外ではありません。

 つまり、すべての犯罪は白日のもとにさらされ得るし、さらさなければならない。そして、犯された犯罪に対しては実証性と客観性とをもって公平な刑罰を下し得るし、そうしなければならない。刑事司法はそうしたシステムとして設計され運用されているし、国民の多くもそうあるべきだと考えているでしょう。

 しかしながら実際には、そうした精緻なシステムからこぼれ落ちてしまうものもまれにあるわけです。警察・検察のミス、司法の判断の誤り、時代による価値観の変化、政治状況の転換、そして冤罪、あるいはそもそも露見しない犯罪の存在……前述の袴田さんの例を挙げるまでもなく、精緻に作り上げられた(とされている)近代司法システムによる取りこぼし、誤謬も実際には生じるわけであり、ゆえにわれわれは、そうした取りこぼしがどうしても生じることを常に意識し、それを“補完”する方法を用意しておかなければなりません。

 そのための方策として、刑事裁判の運用に際し、司法権力においては公判での情状酌量や受刑者の仮釈放、再審などの制度があり、立法権力においては先述の尊属殺をめぐるような法制度の見直しがある。そして行政権力においては、司法によって罪を犯したと認定されて刑罰を科された者に対し、さまざまな観点から“許し”を与えて救済する制度がある。それがすなわち恩赦である、というのが、少なくとも理念上の、恩赦の存在意義であると私は考えています。恩赦という制度を、日本のみならず広く世界各国が採用しているのは、まさにそういう理由からではないでしょうか。

 そもそも三権分立の目的は、立法・行政・司法の三権が相互に抑制し合い権力の濫用を防ぐという点にあるはずです。となれば、いわば行政権力による司法権力への“横やり”である恩赦は、近代政治システムにとって必ずしもイレギュラーなものではなく、むしろその理念に照らして“あって当然のもの”とさえいえるでしょう。

河合幹雄

河合幹雄

1960年生まれ。桐蔭横浜大学法学部教授(法社会学)。京都大学大学院法学研究科博士課程修了。社会学の理論を柱に、比較法学的な実証研究、理論的考察を行う。著作に、『日本の殺人』(ちくま新書、2009年)や、「治安悪化」が誤りであることを指摘して話題となった『安全神話崩壊のパラドックス』(岩波書店、2004年)などがある。

Twitter:@gandalfMikio

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