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「偉人たちの診察室」第11回・細川ガラシャ

精神科医が語る細川ガラシャ…キリスト教入信はうつ病の「病前性格」「執着気質」が遠因か

文=岩波 明/精神科医
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京都府宮津市のカトリック宮津教会内にある細川ガラシャ像。本名は明智玉子(玉)、ガラシャは洗礼名(伽羅奢)に由来している。(写真:田中秀明/アフロ)

 細川ガラシャ夫人は、「逆臣」明智光秀の娘である。彼女は、後に肥後(熊本)の大名となった細川家の当主、細川忠興の正室となった。ガラシャの本名は、明智玉子(玉)である。

 ガラシャは、1563年の生まれである。これは、戦国時代の群雄の争いがまさに佳境に入った時期である。自決して亡くなったのが1600年、それは関ヶ原の戦いにおいて東西両軍が激突する直前のことだった。まさに彼女は、戦国時代を生き抜いた女性であった。

 ガラシャは、キリスト教の洗礼を受けている。このガラシャ夫人という呼び名は彼女の洗礼名(伽羅奢)に由来し、明治時代になって使用されるようになったものである。

 若い読者にはなじみがないだろうが、細川ガラシャというと連想されるのが、深作欣二監督による大作映画『魔界転生』である。1981年に封切られたこの作品は、山田風太郎原作の伝奇小説を大幅に改変したものになっている。

 映画のなかでは、沢田研二演じる、島原の乱で命を落としたキリシタンらの頭領、天草四郎時貞が魔界の力によって現世に転生する。天草四郎は、徳川幕府に復讐を遂げるため、無念の死を遂げた者たち、宮本武蔵、宝蔵院胤舜、伊賀の霧丸、細川ガラシャ夫人らを「魔界衆」として蘇らせて幕府を追い詰めていく――そんな破天荒な物語である。

 この天草四郎に立ち向かうのが、千葉真一が演じる柳生十兵衛であった。一方、巫女に化けたガラシャは、4代将軍徳川家綱に見初められて側室・お玉の方となり、その美貌と妖艶さによって将軍を篭絡してしまうが、やがて錯乱状態となったガラシャは、江戸城を火の海にしてしまうのだった。

 実は山田風太郎の原作にガラシャは登場しておらず、ガラシャの登場は深作監督のアイデアであったらしい。この映画におけるガラシャ夫人の「魔性の女性」としての印象は強烈なものがあったが、実際のガラシャは、実は妖艶さとは無縁の生真面目で貞淑な女性であった。

 ガラシャは、この時代の著名人である。けれども前回の【「偉人たちの診察室」第10回・淀君】で述べたように、戦国時代の女性に関する記録は驚くほど少ない。本稿においては、多くの資料の比較から、ガラシャの生涯を記述した歴史学者・田端泰子氏の著作(『細川ガラシャ』ミネルヴァ書房)を参考に、彼女の生涯を振り返ってみよう。

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2010年に発売された田端泰子著『散りぬべき時知りてこそ 細川ガラシャ』 (ミネルヴァ書房)。

『明智軍記』によればガラシャは大変な美人で琴や笛の演奏が巧み、夫の細川忠興も大変な教養人

 ガラシャは、1563(永禄6)年に越前で、明智光秀と妻・煕子の間に四女として産まれた(三女など他の説もある)。煕子は、光秀との間に三男四女をもうけている。

 ガラシャの姉のひとりは、信長の甥である織田信澄の妻となった(信澄は本能寺の変の際、謀反の疑いをかけられて自害している)。また別の姉は、荒木村重の嫡男に嫁していたが、村重が織田信長に反旗を翻したため、離縁して助け出されている。

 ガラシャの幼少時代の記録は、公式なものも私的なものも残存していない。おそらく織田信長の重臣として戦地を渡り歩いていた父と触れ合う機会は少なかったであろうが、賢母といわれた母により大切に育てられたと思われる。

 ガラシャと細川忠興の婚約を決めたのは、主君である織田信長であった。信長は自らの覇権を確立する過程において、姉妹、娘たちを戦国大名、公家、家臣に嫁がせて、積極的に縁戚関係の形成を行った。さらに家臣団に対しても多くの縁談を成立させており、ガラシャの細川家への嫁入りもその一貫だった。

 1578(天正6)年8月、ガラシャは、細川藤孝の嫡男である忠興に嫁いだ。この婚姻は信長の命令による「主命婚」であったが、両家にとってもこれは望まれた縁組であった。

 というのは、ガラシャの父である明智光秀と、ガラシャの夫となる細川忠興の父、細川藤孝(幽斎)は、15代将軍足利義昭を奉じていた時代から長く苦労を共にした仲であったからである。

 さらに光秀も藤孝も教養豊かな文化人であったことも、両家を結び付けていた。特に藤孝は、「古今伝授」(『古今和歌集』の解釈の秘伝を伝授されること)を受けるなど、その時代の飛び切りの文化人であったことが知られている。

 ガラシャは、1578(天正6)年8月、細川家の居城である勝竜寺城に輿入れをした。翌1579(天正7)年に長女を、1580(天正8)年には長男を産んでいる。ガラシャは夫の忠興に伴い、丹後八幡山城、次いで宮津城に移っている。

『明智軍記』によればガラシャは大変な美人で、琴や笛の演奏が巧みであり、当代一の文化人であった舅の細川藤孝も最愛の嫁としてかわいがったと述べられている。ちなみに夫である忠興も茶の名人で、千利休の「利休七哲」のひとりに数えられているほか、和歌、連歌、能などにも造詣が深かった。

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