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鎌倉殿の13人から考える“五摂家”の誕生…平家と近かった近衛家、源氏と近かった九条家

文=菊地浩之(経営史学者・系図研究家)
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幼帝を後見するためにみずから政務を執る“院政”を初めて行った、院政の祖・白河天皇。天皇の父や祖父という立場を利用して、思うがままの政治を行った。(画像はWikipediaより)

院政の開始は、8歳の息子・堀河天皇を即位させた白河天皇

 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、源頼朝(演:大泉洋)が度々上洛し、後白河法皇(演:西田敏行)や九条兼実(くじょう・かねざね/演:田中直樹)と交渉したりする局面になってきた。

 しかし、そもそも九条兼実って誰? その頃の京都朝廷の情勢はどうなっていたのだろう? そのことを理解するためにはまず、後白河法皇が行っていた院政の始まりから歴史を追っていこう。

 平安時代の朝廷といえば、摂関政治である。その頂点にいたといわれている藤原道長(966〜1027年)は五男坊で、兄たちと権力闘争を繰り広げて勝者となった。ところが、道長の嫡男・藤原頼通(よりみち)には娘が1人しか生まれず、しかも、その娘は男子を産まなかった。その結果、藤原家以外を母とする後三条天皇が誕生した(母は三条天皇の娘・禎子[ていし]内親王)。藤原家を外戚に持たない天皇は、宇多天皇以来、実に170年ぶりの快挙(?)だったという。

 もちろん頼通は後三条天皇の即位を快く思わず、それを阻止しようとしたのだが、頼通の弟・藤原能信(よしのぶ)が即位を支援した。能信は禎子内親王の側近だったのだ。能信にも娘が1人しかいなかったので、妻の姪・茂子(もし)を養女として即位前の後三条天皇に嫁がせた。2人の間に生まれたのが、院政の祖・白河天皇である。

 白河天皇には異母弟がおり、後三条天皇は譲位すると、その異母弟を白河天皇の皇太子とした。しかし、白河天皇は自分の子ども(のちの堀河天皇)を即位させたい。そこで、後三条天皇の死後、難癖をつけて異母弟を失脚させ、8歳の堀河天皇を即位させた。幼児の天皇に政務はできないので、父親の白河上皇が政務を行うしかない。院政は、天皇家のきわめて個人的な理由によって始まった。

藤原摂関家は娘に恵まれず“天皇の外戚”の地位を失い衰退…白河上皇の“院”の地位が急上昇

 白河天皇の母・茂子の実家は閑院(かんいん)流藤原家といって、道長の叔父・公季(きんすえ)を祖とする。摂政・関白に就いた者はなく、いわば傍流なのだが、茂子以来、摂関家に代わる天皇家の外戚となった(三条家、徳大寺家、西園寺家等がその子孫にあたる)。

 一方、摂関家は娘に恵まれず、たまに天皇家に嫁いでも男子を得ることができなかった。

 1107年、堀河天皇が死去し、子の鳥羽天皇が5歳で即位した。そこで摂政を誰にするかが問題になった。候補は、摂関家の藤原忠実(ただざね/道長の孫の孫)、鳥羽天皇の伯父・閑院公実(きんざね)である。そもそも、藤原家が摂政・関白に就く根拠は、天皇家の外戚だからだ。ところが、もはや摂関家は天皇家の外戚ではない。一方の閑院公実は、自分が天皇の外戚なのだから摂政になるべきだと白河上皇に詰め寄った。

 さんざん悩んだ挙げ句、白河上皇は摂関家の藤原忠実を摂政に任じた(のち関白)。ここで、忠実はみずからの正統性を担保するため、辞令に「上皇の仰(おおせ)の由」であることを明記するように求めた。これによって、ますます院政の権威が向上したという。

 閑院公実が死去した後、娘の璋子(しょうし)は白河法皇の養女となった。白河法皇は藤原忠実の子・忠通と璋子の縁談を打診したのだが、忠実はかつての政敵の娘との縁談を渋ったらしい。そうこうしているうちに、今度は璋子が白河法皇の孫・鳥羽天皇に入内するという話になる。忠実は璋子の悪口を言い立て、それが露見。忠実は娘・勲子(くんし)を鳥羽天皇に入内させる話を進めており、それが実現すると璋子の立場が危うくなると考え、白河法皇は忠実の内覧(ないらん/関白の主要業務)を停止させる。忠実は事実上関白を罷免され、子の忠通が関白に就任した。

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17:30更新
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