寄席については大正から昭和にかけて日暮里と三河島にそれぞれ5軒、南千住に4軒、尾久に3軒あった。商店主が店の2階を寄席にすることも多かった。映画館と寄席が隣接して建てられることも少なくなかった。その周りに射的場、碁会所、居酒屋、洋食屋が開業し、遊楽街が出現する地域もあったという。
やはり1922年、尾久にはもうひとつ大きな施設ができた。東京野球倶楽部が現在の西尾久7丁目の1万5000坪の土地を借りてつくった野球場「尾久球場」である。経営は荒川遊園と同じ広岡勘兵衛や尾久の佐藤病院の院長らによるものだった(しばらくして経営難により閉鎖)。このように1922年ごろの尾久には、三業地、遊園地、映画館、野球場など、さまざまな娯楽施設が次々とできて栄えたのである。
東京最初の「公益浴場」のひとつが荒川区にあった
他方、貧しい人々も増えていた。荒川区の人口は1920年から30年にかけて12万人から28万人に急増した。なかでも増えたのが尾久地区であり、7500人ほどから7万5000人弱の10倍に増えたのである。急激な人口増加は住環境の悪化をもたらし、衛生・通風・保安の上で深刻な状況を生んだ。そのため、これらの地域で住宅環境の改善、失業者や貧困者に仕事を与えるさまざまな社会事業が始まった。
すでに東京府社会事業協会は、荒川区内の各所に日用品廉売供給所、共同浴場、幼児保育所などを設置し始めていた。尾久ではないが、日暮里に細民地区改善のモデルとして1919年に「日暮里小住宅」を建設し、そのなかに託児所、公益質屋、共同の浴場と洗濯場をつくった。この託児所は日本女子大卒の女性、丸山千代が経営したものである。日本女子大学長の成瀬仁蔵はアメリカ留学を通して得たキリスト教聖心に支えられた社会事業に高い関心を示し、卒業生の組織である桜楓会の活動として託児所の創設を考案したのである。卒業生のなかから託児所の保育主任に選ばれたのが丸山だった。丸山は小石川、巣鴨町宮下に次いで、日暮里に3番目の託児所をつくったのである(日暮里小住宅は残念ながら現存しない)。
浴場については、民間ではなく慈善団体が設置した公益浴場というものが当時はあり、たとえば1911年には、浅草の橋場町に、辛亥救済会による公益浴場が、大火事で罹災した人々のためにつくられている。日暮里の共同浴場も公益浴場のひとつであり、公益浴場としてはかなり古いもののひとつだといえる。その後、東京市の社会局が設置した公設浴場ができていった。まず月島2号地の公設住宅に附設して浴場をつくり、そのあと、深川の東京市営住宅に附設して古石場に浴場をつくったのだという(川端美季『近代日本の公衆浴場運動』法政大学出版局)。
銭湯というと民間によるものばかりかと思っていたが、違うのだ。下町にはこうした公益浴場、公設浴場というものもあったのである。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)