「開会」宣言のつもりで「閉会」を宣言した議長
このような失言の背後に潜む深層心理を解明したのが、うっかりしたミスの精神分析を行ったジグムント・フロイトである。フロイトは、失言に代表されるうっかりしたミスについて、たいていは興奮、疲労、不注意などの生理学的要因のせいにされがちだが、そこに潜む心理学的要因が見逃されているという。
たとえば、議会において、「開会を宣言します」というつもりの議長が、うっかり「ここに閉会を宣言します」と言ってしまった例について。議長が疲れており注意散漫になっていたからだろうといった生理学的要因による説明も、確かに成り立つ。
でも、疲れていたから言い間違えたのだとしても、なぜ間違えたのが「開会」の箇所であって、他の箇所ではなかったのか。しかも、「開会」の代わりに口から出た言葉が、なぜよりによって「閉会」だったのか。これをすべて偶然のせいにしてしまってよいのだろうか。
ここに浮上してくるのが、心理学的要因の存在だ。言い違いも、それなりの目的をもった心理的行為だとみなすのである。
そういう目でこの議長の心理状況をチェックしてみると、じつは議会の形勢が思わしくなく、一応開会は宣言しなければならないものの、できるだけ早くお終いにしてしまいたいという思いが強く、それが「開会」を「閉会」と言い間違えさせたとみることができる。
議長の心の中には、会議を開かなければならないという意図と、開きたくないという意図の2つが同時にあった。この2つが衝突し、せめぎ合った結果、言い間違いが生じたわけである。
だが、そうしたせめぎ合いが心の中で生じていることに本人自身が気づいていないことが多い。だから、うっかり失言しても、平気でいるのである。じつは、失言によって隠しておきたい内面が見えてしまっているのに。
上司に対する祝辞を言い間違えた部下
もう少し具体的なケースについてみてみよう。
あるパーティの会場で、上司に対して祝辞を述べる際に、「健康を祈って乾杯しましょう(anstossen)」と言うつもりで、「健康を祈ってゲップしましょう(aufstossen)」と言ってしまったケースについて。
このような場合、言ってしまった当人は大慌てで謝罪し、訂正し、会場は大きな笑いの渦に包まれ、和やかに進行するのが常だろうし、それは緊張のあまりうっかり言い間違えてしまったに違いないと誰もが思うはずだ。日本語にしたら、こんな言い間違いはあり得ない。だが、ドイツ語では、語が非常に似通っており、うっかり言い間違えてもおかしくない。緊張のあまりうっかりしてしまった。それはそうだろう。