だが、なぜほかのところでなく「乾杯」のところで言い間違えたのか。しかも、代わりに口をついて出た言葉が、よりによって「ゲップ」「吐き出す」なのか。
ここでもまた心理学的要因の存在が疑われる。この場合も、日頃のこの人と上司との関係を知っていれば、この言い間違いの心理メカニズムは明らかだ。
この人は、上司に祝辞を述べなければと思いつつも、心の中ではこの上司のことを尊敬すべき人物どころかとんでもないヤツだと思っているため、祝辞を述べることに心理的に抵抗があったわけだ。
失言はすべてホンネ、謝罪し撤回してもホンネは変わらない
これで政治家の失言の理由が明らかになったはずだ。
なぜ自分の進退にもかかわる可能性もあるような失言を平気でしてしまうのかといえば、本気でそう思っているからだ。
このようなホンネは、謝罪し、撤回したら、その瞬間に果たして変わるものだろうか。変わるわけがない。批判にさらされたから、仕方なく失言について謝罪し、発言を撤回はするものの、それはタテマエとしての謝罪であり、やむを得ない撤回であって、心の中までいきなり変わることなどあり得ない。人間というのはそんな単純なものではない。よほどの価値観を揺さぶられる経験をしない限り、自分が信じている考えなど、なかなか変わるものではない。
さて、ここで強調しておきたいのは、失言しても謝罪・撤回で一件落着にはしないといった世論形成が必要だということだ。失言をいくら謝罪し撤回したところで、騙されない国民。失言はホンネの表れ、あの政治家は心の中でこんなことを思ってたのかと国民が考えるようになれば、自己呈示としての謝罪(本連載の第2回で解説)に騙されずに人間性を判断できるようになる。言葉には人柄や思想が滲み出るものだ。心の中に秘めたホンネが漏れ出る瞬間がある。
失言を繰り返す政治家の側も、うっかり失言して批判にさらされると、「ほんとうにうるさいな」と思いつつ、仕方なく謝罪し、撤回するだけで、事態を軽く受け止めすぎている。うっかり言ってしまったことが問題なのではなく、心の中でそう思っていることが問題なのである。失言が問題になるということは、心のありようが批判にさらされているのである。
国民から見て「???」「あり得ない!」と思わざるを得ないような失言を政治家が繰り返すのは、今の多くの政治家が国民の心理に無知でありすぎるからだ。国民心理から遊離してしまっている。ホンネがどこかズレてる。だから信頼が得られないのだ。
うっかり失言して問題になると、運が悪かったと考える。だから進歩がない。思いがけず失言し、批判にさらされたら、運が良かったと考えたらどうだろう。自分が気づかなかった国民の意識とのズレに気づくチャンスととらえる。それによって国民の目線に立ってものごとを見ることができるようになっていけるのではないか。
「謝ってすむなら、ケーサツはいらない」
子どもの頃によく耳にもしたし、言いもしたセリフだ。いい年をした大人たちが、国民の生活に責任がある政治家の失言を謝罪・撤回で水に流すなどという文化を、軽々しく形成しているのがおかしい。
子どもだって、そんなのおかしいと思うのである。
(文=榎本博明/MP人間科学研究所代表、心理学博士)