人口増加に伴って商店、飲食店ができ、今でいう風俗店もできてきた。そこで安藤らの地主は三業地指定を受けて、怪しい風俗業者を追い出し、正式に芸者遊びができるようにしようとしたのである。三業地開設当初は待合2軒、芸妓屋7軒があり、芸者14人、半玉6人がいた。初代産業組合長は、安藤義春であり、「彌生」(やよい)という待合を経営していた。
1914年には上野公園で大正天皇即位記念の大正博覧会が開催され、麻布花街も参加した。白山の花街芸者も1923年の大正博覧会に出演しているので、当時は芸者衆が博覧会に出るのは普通のことだったらしい。博覧会に出ることで芸を磨くことができたからである。
麻布の芸者衆は、そこで「朧月猫妻恋」を演じた。これは明治初期に流行した「猫じゃ、猫じゃ」という踊りである。一体どういうものかは私も知らないが、風俗史の本にはよく出ている。麻布芸者がそれを踊ったので、山の手の麻布から猫が来たというので「麻布の山猫」という異名を芸者衆はもらうことになった。
第一次世界大戦によって景気が良くなると、麻布花街は鉄工機械工場関係の客が大挙訪れ、1918年ごろには連日連夜芸者遊び、午後2時になると芸者が置屋からいなくなるほどだったという。
さらに23年の震災後は、下町の花街が被災したのに、麻布は被害が少なかったので、客が麻布に押し寄せ、麻布の最盛期を迎えた。震災後に栄えたのは五反田の花街と同じである。震災は人口を東側の下町から西側の山の手に移動させたが、花街も移動したのである。麻布十番の夜の賑わいは、渋谷の道玄坂か新宿かと思われるほどとなり、露店が出て人波がごったがえしたという。
麻布十番は十数年前まで電車の駅もなく、六本木から流れた芸能人らがたむろするくらいだったが、その後地下鉄2路線の駅ができ、東京散歩ブームもあって、今は賑わっている。
古川沿いは、ほとんどの工場、倉庫はマンションやオフィスビルなどに建て替わっている。それでもかつての名残を見ることができて、銭湯もまだある。麻布十番方面にお出かけの際は、まずは昔の工場地帯を歩き、銭湯に入ってから酒を飲むようにしてはいかがか。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)