日本初の鉄道が開業したのは明治5年(1872年)9月12日。同年12月に太陰太陽暦から太陽暦(グレゴリオ暦)に変更され、それまでの9月12日が10月14日となり、“鉄道の日”と定められた。
鉄道の日やその前後は鉄道会社を筆頭に毎年のように各地で記念イベントが広く開催されているが、特に今年は開業150年に当たるため、連日テレビでも関連番組が放送されるなど、例年以上の盛り上がりとなった。
日本初の鉄道の開業区間は東京・新橋(現在の汐留付近)を起点に、神奈川の横浜(現在の桜木町駅)まで。この新橋〜横浜間が日本の鉄道開業の地であることは学校で習ったこともあり、鉄道ファンでなくとも周知の事実に違いない。
しかし、である。そこから遠く離れた九州の地に、もう一つの“我が国 鉄道発祥の地”があることをご存じだろうか。長崎県長崎市新地町6丁目、旧長崎英国領事館の北、長崎みなとメディカルセンター前に鉄道発祥の地碑(我が国 鉄道発祥の地碑)がたっているのだ。
長崎市が建立したこの記念碑の脇にある説明文には、「この運転は営業を目的としたものではありませんでしたが、蒸気機関車の運行としては日本で最初のものでした」との一文が記されている。しかし、なぜ長崎に鉄道発祥の地碑があるのか。
実は鉄道開業から遡ること7年、江戸末期の元治2年(1865年)3月17日に、長崎の貿易商として知られるイギリス人のトーマス・グラバー(明治維新の立役者・坂本龍馬とも交流があり、住居は観光名所のグラバー邸)が母国製の蒸気機関車“アイアン・デューク(鉄の公爵)号”を走らせているのである。区間は現在記念碑のある場所(ちょうど現在のグラバー邸から見下ろせる位置にある)から、南西にある外国人居留地(今の松ヶ枝あたり)までの大浦海岸通り。約600メートル(400メートルという説もある)の線路が敷かれ、客車2両に日本人などを乗せて運行していたという。
もともと、機関車と客車はイギリスから中国へ輸出する予定でグラバー商会が購入したものだった。この車両は軌間(左右のレールの間隔のこと)が762mmの軽便鉄道(一般的な鉄道よりも規格が簡便で、安価に建設された鉄道のこと)ながら、グラバーは日本にも売り込むつもりだったようで、商談目的で約1カ月間の試乗運転させている。商談のために実物の鉄道一式を持ち込んで走らせたわけで随分と豪快な話だ。
つまり、人を乗せて営業可能な蒸気機関車の運行という点では、グラバーの試運転が日本初だったのである。
そのため長崎はある意味、“我が国 鉄道発祥の地”で間違いはない。しかし、あくまでもデモンストレーション走行に終わってしまい、乗客を乗せて走る営業路線とはならなかった。それでも当時、黒い煙をもくもくと吐きながら力強く蒸気機関車が走る様子を目の当たりにした日本人は、目を丸くして驚くと同時に、近代文化の到来にワクワクしたに違いない。
ペリー来航の1年前に蒸気機関車の模型が日本に
さらに、このグラバーの一件がなくても、“日本初の鉄道は長崎に通ず”といえるような出来事が、ほかにも起きている。
それは嘉永6年(1853年)のこと。ロシア海軍のエフィム・プチャーチン提督率いる4隻の軍艦が長崎に入港した際、停泊した艦上で蒸気機関車の模型を日本人に披露したという記録が残っているのだ。これは、黒船来航でおなじみのアメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が2度目の来日を果たし、大型の蒸気機関車模型を幕府に献上する1年も前のことだった。
長崎でプチャーチンの蒸気機関車の模型を見た佐賀藩では、安政2年(1855年)に蒸気機関の研究を名目として独自で設計・製造に着手。そのときに完成した“蒸気車雛形”は現存していて、佐賀市内にある公益財団法人鍋島報效会に保管展示されている。この蒸気車雛形は2気筒の蒸気シリンダーを有するが、ボイラーは単管で蒸気の発生量は少なく、動力不足を補うため、歯車の組み合わせによるギアチェンジを行っていたとみられている。
鉄道といえば明治の文明開化とともにやってきたイメージがあるが、実は江戸時代末期から、すでに先進的なところでは研究がなされていたというワケだ。
ちなみに、佐賀藩でこの蒸気車雛形の製造に当たった技術者のなかに、“からくり儀右衛門”や“東洋のエジソン”と呼ばれた発明家で、のちに芝浦製作所(現在の電機メーカー・東芝の重電部門)の創立者となる田中久重がいたことを付け加えておきたい。
さて、鉄道発祥の地の話に戻ろう。結論として、長崎の鉄道は“日本で初めて人を乗せて走った鉄道”なのに対し、新橋〜横浜間の鉄道は“日本で初めて料金を取って乗客を乗せた鉄道”であった。定義が違えば、鉄道発祥の地が2カ所存在してもOKなのかもしれない。