アベノミクスのワナ〜「規制緩和」「構造改革」は、米国による日本弱体化戦略の一環?
それは自民党一党独裁が続いた“55年体制”への先祖返りである。逆にいえば、米国や英国のような二大政党制の政治を国民が拒否したことの表れでもある。
いずれにせよ、国民は日本経済の命運を安倍晋三首相の率いる自民党に託した。そうである以上、その責任は重大であり、アベノミクスの3本の矢のうちの“成長戦略”で国富全体を増やし、国民生活を豊かにする道筋をつけることが求められている。
しかし、前回のコラムで指摘したように、今のところ、その成長戦略は「規制緩和」「構造改革」「官から民へ」という3つの呪縛にとらわれており、お世辞にも日本経済に明るい展望が開けるとはいえない。ではどうすればいいのか。そのヒントは歴史の中にある。
日本経済が最も輝いていたのは、1980年代である。第2次世界大戦の戦勝国である米国をはじめ、英仏両国も、能天気に浮かれる敗戦国の日本を苦々しく思っていた。だからこそ、米欧との貿易摩擦は先鋭化したのだが、それから四半世紀。今や、貿易摩擦の“ぼ”の字もない。
90年代初頭のバブル崩壊を境に日本経済は下降線をたどり、さらに98年頃からはデフレの泥沼に陥り、いまだに抜け出せずにいる。もはや、日本は経済的にセンシティブになる対象ではないというのが米英仏の本音だろう。
なぜそうなってしまったのか。
70年代まで、日本と米欧との貿易摩擦は繊維、テレビ、自動車など、日本からの集中豪雨的な輸出を抑え込むための個別品目を巡る問題だった。
しかし、80年代に入り、敗戦国にもかかわらず、日本は世界第2の経済大国として、覇権国・米国を猛追し始めた。背後に迫る日本の息遣いに危機感を強めた米国が戦略転換したのだ。米国の採った戦略は2つある。
●日本弱体化を狙う米国の戦略
ひとつ目は、日本の金融資本市場の開放を求め、日本マーケットの競争条件を米欧と同じ土俵に乗せることだった。この戦略の流れの中で、派生的に出てきたのが、ドル高是正のために先進国が協調行動を採ることを決めたプラザ合意(85年9月)であり、人口に膾炙された歴史的事実である。
しかし、この米国の戦略が日本経済の長期低落の原因ということはできない。プラスとマイナスの両面があった上、資本主義国として日本が成熟するために金融資本市場の自由化は避けて通れないことだった。
問題は、2つ目の戦略である。それは、通産省(現経産省)の産業政策を“不公正な競争政策”として槍玉に挙げることだった。米国は、日本経済発展の司令塔は通産省と見て、通産官僚の活動を封じ込める一方、その弱体化を狙ったのだ。
米国は、83年から通産省の個別産業育成策を二国間協議の対象にして批判を強め、後の日米半導体協定(86年)、日米構造協議(89~90年)に繋がっていくのだが、今や、経済史の専門家でもなければ知らない、ほとんど忘れ去られている歴史的事実だ。
当時の日本は、貿易摩擦の解消が至上命題であり、通産省は個別産業の育成から手を引く以外に選択肢はなかった。その象徴的な帰結が、80年代には世界を席巻していた日本の半導体産業の衰退である。30年経った今、日本には成長を実現するような産業政策は存在しないと言っても過言ではないだろう。
米国の戦略は、その目的を達成したのであり、目障りな通産官僚は弱体化した。裏を返せば、60年代から70年代にかけての日本の高度経済成長、そして輝かしい80年代の日本経済を実現させるのに通産省の個別産業育成策が大きな役割を果たしていたことになるのだ。
「規制緩和」「構造改革」「官から民へ」という経済政策のキーワードは、米国の日本弱体化戦略の延長線上にあり、米国はじめ、日本市場で稼ぎたい外資、そして、のし上がりたい新興企業にはプラスだが、日本経済全体の成長には繋がらない。政治が先祖返りするなら、経済政策も先祖返りして個別産業育成策を掲げ、輸出拡大に向け恥も外聞もなく猛進すべき時なのだが、ことはそう単純ではない。
かつて、通産省は談論風発の気風があり、通産官僚は多士済々、城山三郎の『官僚たちの夏』(新潮社)に描かれたような活力にみなぎっていた。しかし、30年の長きにわたり、個別産業育成策を抑制することに汲々としてきた、今の経産官僚はもはや役に立たない可能性が濃厚だからだ。浮かぶアイディアが投資減税では、どうにもならない。安倍晋三政権は、経産官僚頼みで成長戦略は打ち出せない。政治家が歴史を学び、まさに“政治主導”でやるしかない。しかし、それができるだろうか。
(文=大塚将司)
※本記事は、「週刊金曜日」(金曜日/954号)に掲載された大塚氏の連載『経済私考』に加筆したものです。
●大塚将司(おおつか・しょうじ) 作家・経済評論家。著書に『流転の果てーニッポン金融盛衰記 85→98』上下巻(きんざい)など