今、経済学だけでなく経営学も統計分析を駆使した合理的なサイエンスへ向かう傾向が顕著だ。さらに「ビッグデータ・ブーム」が拍車をかけている。しかし、合理的であると考え実行したことが、結果的に合理的ではない。泥水を飲んだ経験がある企業家の中には「理論は役立たない」と断言する人がいるのも、この事実に起因する。たしかに、理論を知らなくても金儲けはできる。ただし、理論も教養であると定義すれば、この主張は「教養などなくても一生を過ごせる」というロジックに似ている。では、教養なき人生は充実しているだろうか。ヨーロッパに古くから存在する「教養市民」の価値観からすれば、教養なき一生は非常にさびしい人生である。いや、教養があるがゆえに、実利的にも成功している人も少なくない。
●大学で今求められる人材とは
一方、学術一筋の研究者にも長所と短所がある。長所は、いうまでもなく学術に詳しいこと。一方、短所は学術が最高であり、それ以外の世間(既成の価値)を認めようとしない点である。すべての研究者がこのタイプであるとはいえないが、マジョリティを形成している。もちろん「少数有力説」もある。例えば、元一橋大学学長で、その後共立女子大学学長も務められた阿部謹也氏が上梓した『学問と「世間」』(岩波新書)では、生活=「世間」を学問の対象とすることを説いたオーストリアの哲学者フッサールに拠りながら、国民から遊離した大学の学問の現状を批判的に考察し、現場主義による学問の再編成を提唱している。同書には、次のようなくだりがある。
「研究者たちは誰に向かって論文や著書を書いているのだろうか。狭義には学会であろうが、そのほかにそれぞれの著者の『世間』がある。一般的な文章は『世間』に向けて書かれるのである。その『世間』は著者を理解し、その文章が公刊されるたびになんらかの反応をする集団である。それは読者であると同時に仲間であり、著者はその『世間』と暗黙の内に了解しあい、自分の行動のすべてについて『世間』の反応を期待している」
社会科学系リサーチ・ユニバーシティの代表格である一橋大学で学長を務めた研究者が、学究生活を極めた晩年、このように著しているのだ。いわゆる、研究よりも教育を標榜するサービス・カレッジで、旧来型の「学者という世間」のみを基準に教員を採用、審査し続けていることは浮世離れしているといえよう。現在の大学で求められるのは、経営学の分野で例えれば、経営学の学位(博士)を有し、なおかつ、経営者、ビジネスパーソンを理解し違和感なく交流できる人材だろう。それも専門バカではなく、幅広くビジネス・リベラルアーツを語れる「学術的雑談力」を備えた人が望ましい。
大学を取り巻く環境が激変しており、「大学」と名乗る教育機関も、一律の基準で定義できなくなってきた。競争戦略の観点からも、いかに差別化していけるかが大学の価値を左右するようになる。ビジネス・リベラルアーツも差別化を促す有力な武器となる。
(文=長田貴仁/神戸大学経済経営研究所リサーチフェロー、岡山商科大学教授)