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江川紹子の「事件ウオッチ」第141回

心斎橋通り魔、熊谷6人連続殺人…なぜ裁判員裁判の判決は覆されたのかー江川紹子が考察

文=江川紹子/ジャーナリスト
心斎橋通り魔、熊谷6人連続殺人…なぜ裁判員裁判の判決は覆されたのかー江川紹子が考察の画像1
死刑判決が相次いで破棄されたことで「裁判員裁判の意味がない」との声も挙がるが、果たして……。(画像は最高裁判所「Wikipedia」より)

 裁判員裁判が出した判決が、上級審で取り消される刑事事件が相次ぎ、被害者遺族からは「納得がいかない」「これでは裁判員裁判の意味がない」などとの声が挙がる。ネット上では裁判所への批判や非難が飛び交うだけでなく、テレビや新聞などの大手メディアでも死刑の基準を見直すべきだ、との主張が展開される。さらには、検察側の死刑求刑に対して、無期懲役判決を下した裁判員裁判の結果に対しても、「あり得ない」などの批判があふれる。

裁判は裁判員のためにあるわけではない

 上級審が裁判員裁判の判決を破棄した事案のうち、その結果、量刑判断が覆ったのは、いずれも複数の被害者がいる殺人事件だ。

2012年に大阪・心斎橋で、包丁を持った男が通行中の男女2人を包丁で刺殺した通り魔事件。1審の大阪地裁は求刑通り死刑としたが、大阪高裁は凶器を買ったのが直前で、「刺せ」などという幻聴の影響もあったことを考慮し「犯行の計画性は低く、精神障害の影響も否定できない」などとして、1審判決を破棄し、無期懲役刑とし、これを最高裁が追認した。

2015年に埼玉県熊谷市で、ペルー国籍の男が小学生女児2人を含む6人を殺害した連続殺人事件。1審のさいたま地裁(佐々木直人裁判長)は、求刑通り死刑としたが、東京高裁(大熊一之裁判長)は「統合失調症の影響で自分が何者かに追跡されていると妄想し、住宅への侵入や殺害行為に及んだ可能性は否定できず、責任能力が十分ではなかった」として、1審判決を破棄して無期懲役刑とした。

 裁判員裁判での死刑判決が上級審で覆り、無期懲役刑となるのは、心斎橋通り魔事件が5件目、熊谷6人連続殺人事件で6件目となる。

 「なんのための裁判員裁判だったのか」「被害者の命が軽視されている」「本当に悔しい」「言葉が見つからない」……。被害者遺族からは口々に、強い憤りや不信感が表明された。

 1審を担当した元裁判員からも不満の声が挙がっている。たとえば心斎橋通り魔事件については、5月12日に時事通信が配信した「裁判員制度導入10年」の記事で、一審の裁判員を務めた男性の思いを次のように紹介している。

〈難しい判断を迫られたが、弁護人の主張を聞くうちに、「論点をずらしているのでは」との疑問が膨らみ、被告の発言に「全く反省していない」との思いが強まる。生前の被害者の様子を語る遺族の証言に涙があふれた。約1カ月後、ぴんと張り詰めた法廷で、裁判長が言い渡した死刑判決を聞きながら、「やりきった」と感じた。

 17年3月、悩み抜き、本気で考えた結論を大阪高裁が破棄した。(中略)「あり得ない。理解できない」。裁判長が読み上げた理由に、怒りが収まらなかった。「生半可な思いでやっていたわけではない」と語気を強めた男性。死刑を選択した一審判決が「安易な民意だった」と思われるのが悔しい。〉

 男性の気持ちはわからないではない。が、メディアはこうした発言はもう少し注意深く扱うべきではないか。裁判員制度の維持のためには、裁判員を経験した人たちの満足度をまったく無視するわけにはいかないだろうが、いうまでもなく、裁判は裁判員の正義感や達成感のためにあるわけではない。制度も、裁判員の判断も常に必ず正しいとは限らないという前提で、裁判員裁判となった事件でも3審制が維持されている。

 むしろ1審の裁判員裁判が死刑判決とした場合、必ず職業裁判官による控訴審を経なければならない、という制度変更をしたほうがいいという意見も出ている。被告人が控訴せずに1審で確定してしまうと、人の命を奪うという重大な決定の重みを、1審のメンバーのみが背負うことになるからだ。自ら望んでその職に就いた職業裁判官と違い、たまたまくじ引きに当たっただけの市民の中には、生涯重荷を背負ったように感じる者もいるのではないか。

裁判の「公平性」と「永山基準」

 さまざまなメディアで、裁判員裁判の結論を覆した上級審を批判する者の中には、弁護士のような専門家もいた。その中には、驚かされるようなものもある。

 たとえば、ペルー国籍男性による連続殺人事件の高裁判決では、民放の情報番組に出演した弁護士が、こんな発言をした、と報じられている。

「こんなバカげた判決があっていいのかと思います。事実認定、何の変わることなく、ただ責任能力の程度が相当低かったという評価だけです。それで一審の判決を覆して無期にするってことが許されていいのかと思います」(12月6日スポーツ報知電子版)

 心神耗弱により責任能力が限定的だと判断された場合、刑が減軽されていることは法律で定められており、果たして法律家の発言なのかと首を傾げたくなる。

 ワイドショーなどの情報番組に出演する弁護士の役割は、一般の人には理解しがたい裁判所の判断が出た時には、このように素人と一緒になって憤慨することではなく、法的な判断をわかりやすく解説することではないのか。テレビ局も、そうした役割を果たせる法律家を人選して呼び、視聴者がこの問題について冷静に考える材料を提供すべきだろう。

 ところで、高裁で1審の裁判員裁判の判決が破棄されるのは、死刑事件に限った話ではない。しかも昨今、破棄率は上昇している。高裁が裁判員裁判の判決を破棄した割合は、裁判員導入から3年間の破棄率は6.6%だったのに、2018年には11.8%に達した。もっとも、職業裁判官だけで審理していた頃の破棄率(17.6%)に比べると、まだ低く、裁判員裁判の結論はかつてよりは尊重されている、といえる。

 裁判所は、1審の裁判員裁判の判断を上級審でも重視する「1審尊重」を原則としている。1審千葉地裁の裁判員裁判が無罪とし、2審の東京高裁が有罪とした覚せい剤密輸事件で、2012年の最高裁判決は再び無罪とし、「控訴審が1審判決に事実誤認があるというためには、1審判決が論理則、経験則に照らして不合理だと示す必要がある」と判示した。

 その一方で、最高裁は「公平性」も求める。裁判員に選ばれた人たちの「市民感覚」を重視し過ぎると、突出した判断が出ることもあって、他事件に比べて不公平な裁判になることもあるからだ。

 たとえば、1歳8カ月の女児が死亡した虐待事件で傷害致死罪で起訴された両親に対し、大阪地裁の裁判員裁判が求刑(懲役10年)の1.5倍に当たる懲役15年を言い渡し、大阪高裁もそれを支持した事件では、最高裁は2014年の判決で、父親を懲役10年、直接的には暴力を振るっていなかった母親を懲役8年に減刑した。裁判員裁判は「児童虐待は大きな社会問題となっており、厳しい刑罰を科すべき」として、従来の量刑水準をあえて無視した判決を出したが、最高裁は次のように述べている。

〈裁判員制度は、刑事裁判に国民の視点を入れるために導入された。(中略)裁判員裁判において、それが導入される前の量刑傾向を厳密に調査・分析することは求められていないし、ましてや、これに従うことまで求められているわけではない。しかし、裁判員裁判といえども、他の裁判の結果との公平性が保持された適正なものでなければならないことはいうまでもなく、評議に当たっては、これまでのおおまかな量刑の傾向を裁判体の共通認識とした上で、これを出発点として当該事案にふさわしい評議を深めていくことが求められている〉

 そして、従来の量刑から大きく外れる判断をするのであれば、「具体的、説得的な根拠」を示さなければならない、とした。

 裁判員裁判での死刑判決が覆った最初の事件は、東京都港区で男性が被害に合った強盗殺人事件。東京地裁の裁判員裁判の死刑判決が東京高裁で覆り、無期懲役刑となった。続く2件目は、千葉県松戸市で女子大生が殺された強盗殺人事件。やはり千葉地裁の裁判員裁判の死刑判決が、東京高裁で無期懲役刑となった。この2つの事件は、いずれも被害者が1人。ただ、港区の事件では殺人の前科が、松戸市の事件では強盗強姦など多数の余罪があった。最高裁は2015年2月、この2つの事件について、無期懲役とした高裁判決を支持する決定をした。

 この決定で最高裁は、「公正性」について「裁判の営みそのものに内在する本質的な要請」と述べている。そして、死刑については「あらゆる刑罰のうちで最も冷厳でやむを得ない場合に行われる究極の刑罰であるから、その適用は、慎重にかつ公平性の確保にも十分に意を払わなければならない」とするなど、何度も「慎重」と「公平性」の2語を繰り返した。

 公平で慎重な判断のため、「市民感覚」よりも、連続4人射殺事件で1983年の最高裁判決が示した、いわゆる「永山基準」が、裁判員制度導入以降も、死刑適用の目安として使われている。「基準」といっても、一定の数値などを示しているわけではなく、死刑が求刑された時に検討すべき次のような項目を挙げているものだ。

 1) 犯行の罪質
 2) 動機
 3) 犯行態様、特に殺害方法の残虐性
 4) 結果の重大性、特に殺害された被害者数
 5) 遺族の被害感情
 6) 社会的影響
 7) 被告人の年齢
 8) 前科
 9) 犯行後の情状

 これら9項目を考慮し、やむを得ない場合に死刑を選択することが許される、とする。被害者数が1人の場合は死刑が回避されることが多いが、他の項目を含めて検討して死刑が選択されることもあり、被害者3人でも無期懲役刑が選択されることもあり、あくまで総合的な評価で判断する。

 また、熊谷の6人連続殺人事件のように、心神耗弱により責任能力が限定的だと判断された場合、刑が減軽されることが、法律で決まっている。

刑罰は被害者側の報復ではない

「永山基準」では、遺族感情や社会的影響は重要な項目ではあっても、それだけで死刑が選択されたり、回避されたりするわけではない。

 新潟市で小学2年生の女の子を殺害して線路に遺体を遺棄したなどとして、殺人や強制わいせつ致死、遺体損壊罪などに問われた男に対し、新潟地裁(山崎威裁判長)は12月4日、無期懲役(求刑死刑)を言い渡した。

 判決は、被害者の生前のわいせつ行為を否認する被告人の主張や、列車の脱線の危険性についても弁護人の主張を退けたうえで、死刑を回避した理由を、遺族感情に触れながら丁寧に説明している。

〈この事件は、稀に見る凄惨な事件であり、遺族の悲痛な思いは察するに余りある。遺族が、先例にとらわれずにこの事件だけの事情を見て刑を判断してほしいという思いを抱くこと自体は、至ってもっともなことである。しかし、死刑が究極の刑罰である以上、慎重さと公平性は特に求められるものであり、この考え方を放棄することにより遺族の思いにこたえることは残念ながらできない。

 同種の事件においては、無期懲役が十数件、有期懲役が数件あるだけで死刑が言い渡されたものはない。もとより、そのためすぐに死刑の選択が否定されるものではないが、死刑の選択が正当化されるためには、少なくとも、これまでの同種の事件と比較して最も犯状が悪質で、生命軽視の程度が甚だしいと判断される必要がある〉

 そのうえで、永山基準に沿って検討を加え、刑事裁判の「根幹」について次のように述べた。

〈遺族の悲痛な思いに対しては裁判員と裁判官全員が深い同情をせざるを得ないものであり、その峻烈な処罰感情にはできる限りこたえたいという思いもある。しかし、死刑を選択するに当たり求められる慎重さと公平性は、刑事裁判の根幹に関わる価値であり、どうしてもこれに処罰感情を優先させることはできないものである〉

 そして、同種事件の量刑傾向から、「わいせつ目的の殺人に対しては原則として無期懲役刑を科すべき」として、次のように結論づけている。

〈全ての事情を総合すれば同種の事件の中で特に重いという評価がされるものではないが、弱者を狙った無差別的な事件である点では重いと評価されるのであり、決して同種の事件の中で軽い部類に属する事件ではない。そうすると、原則どおり、無期懲役刑を科すべき事件である〉

 この結果に、遺族は納得していない。自分の子どもの命が奪った犯人が、これからも生き続ける「理不尽」を受け入れられないのは、当然だろう。

 判決後の記者会見に応じた裁判員からは、永山基準について「犯罪が多様化してきており、見直していかなければならないのでは」という声も出た。

 しかし、刑罰は被害者サイドの純然たる報復とは違い、国家が罪を犯した者の人権の一部、もしくは全部を剥奪する行為だ。永山基準を放棄し、死刑適用のハードルを引き下げ、「市民感覚」で死刑を選択できるようにし、上級審でも容易に覆らないようにしたら、刑罰の性格は大きく変わり、刑事司法は報復の場となるだろう。

 そうなれば、真にやむを得ないケース以外にも、感情にまかせて、死刑判決は増加するのではないか。死刑を廃止する国々が増えているが、こうした世界の潮流にも逆行し、国際社会が日本を見る目も変わるだろう。

 また、量刑が被害者側の思いに依存しすぎると、中にはそれを負担に感じる遺族もいるのではないか。遺族が死刑を求めれば死刑適用、求めなければ死刑回避となれば、遺族の意向によって被告人の命の重さが変わるという、新たな不公平も生まれる。

 それに、たとえ上級審で減刑されても、1審で出された死刑判決の重みは失われるものではない。法廷で裁判長の口から死の宣告をされたことで、被告人にとって死はにわかに現実的になる。心斎橋通り魔事件の男は、控訴審で「死刑が怖くなった」と述べている。また、最近は無期懲役囚の仮釈放が厳しくなり、獄中死する人が増えているが、1審の死刑判決は、さらに仮釈放を難しくする要因として働くだろう。決して、「裁判員裁判は意味がない」わけではない、と思う。

 とはいえ、今の高裁、最高裁の量刑判断が絶対正しい、といい切れるものでもない。関係者の証人尋問や被告人質問が行われ、その証言・供述の態度も含めて、直接見聞きする1審の結果を、書面による審理が中心の高裁が覆すことには、これもまた慎重でなければならない。

 永山基準の廃棄をいう人には、ぜひ新たな基準を提案してもらいたい。さまざまな意見を、できるだけ冷静に交わしながら、それを漸次司法に反映していく。そのようにしていくしかないのではないか。だからこそ、議論の材料となるメディアの報道は、冷静で丁寧なものであってほしい。

(文=江川紹子/ジャーナリスト)

江川紹子/ジャーナリスト

江川紹子/ジャーナリスト

東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。


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