精神科医が語る北条政子の“パラノイア”…被害妄想に取りつかれ源頼家ほか源氏一族を粛清
北条政子は源頼朝の妻というだけでなく、初期の鎌倉時代に対し強い政治力を発揮した人物である。この時代を語るにあたっては、舞台となった鎌倉の地理的条件を考慮する必要があろう。「首都」であったにもかかわらず、鎌倉は小規模な町であった。
北条政子は保元2(1157)年の生まれで、鎌倉幕府を開いた頼朝との間に、頼家(2代将軍)、実朝(3代将軍)、大姫、三幡の4人の子どもをもうけた。頼朝の死後は出家し、尼御台と呼ばれた。さらに嫡男・頼家、次男・実朝が謀殺された後は、京から招いた幼い将軍の後見となって幕政の実権を握り、尼将軍と称された。
北条政子に対する評価はさまざまである。女性として政治のとりまとめを行ったことを高く評価するものもあれば、2人の子が変死して婚家が滅び、実家である北条氏がこれに代わったことを批判されることもある。日野富子や淀殿と並ぶ悪女とする評価や、「毒親」とする見解もみられる。
本稿を執筆するにあたって、『北条政子』(関幸彦著/ミネルヴァ書房)、『北条氏の時代』(本郷和人著/文春新書)、『北条政子、義時の謀略』(永井晋著/KKベストブック)、『「わきまえない女」だった北条政子』(跡部蛮著/双葉社)などを参考にした。
不穏な動きがあればすぐに察知されてしまう、鎌倉というエリアの“狭さ”
鎌倉は東西と北側を山に、南側を海に囲まれた土地で、平地はわずかしかない。源氏の諸将や北条政子が活躍した時代、海岸線は今より北側にあり、人の住める土地はさらに狭かった。
現在の鎌倉市における主な住宅地は、JR鎌倉駅から材木座、由比ヶ浜に至る地域である。腰越から長谷のあたりまでは、小高い丘陵が海岸線まで迫っている。北側も鶴岡八幡宮のある一角を過ぎると隘路しかない山道となり、西側も同様である。
かつての日本の政治的中心地であったにもかかわらず、2022年の時点で鎌倉市の人口は約17万3000人(5月1日現在)と決して大きな町ではない。これは近隣の藤沢市(約42万4000人/行政による推計値)、横須賀市(約38万3000人/行政による推計値)の半分以下である。
また鎌倉市全体の面積は、39.67平方キロであるが、中心部のいわゆる「鎌倉地域」はその約3分の1の14.22平方キロである。この数字は、東京都内でいえば千代田区(11.66平方キロ)よりは広いが、新宿区(18.22平方キロ)よりは狭いのである。
鎌倉時代の初期に起きた数々の陰謀や事件は、すべてこの狭いいち区画で起きたことを念頭に置く必要がある。不穏な動きあれば、すぐに察知されてしまうのである。
「謀反の疑い」から始まった鎌倉時代初期の“政変”は、ほとんどが北条氏側の謀略
源頼朝の屋敷は、大倉地区に建設された。大倉は鶴岡八幡宮の西側、八幡から徒歩数分の距離にある。当初は父・源義朝の屋敷があった亀ヶ谷が候補地であったが、手狭であったため、この地が選ばれたという。建物は武家の屋敷というよりは、一般的な貴族の邸宅であった。
この大倉御所は、火災により数度消失し、当初は再建されたが、その後、二階堂大路仮御所、宇津宮辻子御所、若宮大路御所と何度か移転を繰り返した。
政子の父である北条時政の邸宅は名越にあった。現在の鎌倉駅からJR横須賀線は逗子に向かうが、その横須賀線と並走するように走っていたのが名越街道である。この名越という地名は、「難越」(越え難し)が由来になったという。
時政の屋敷は名越邸と呼ばれ、名越街道よりも北側に位置していたらしい。しかし、長年「北条時政名越邸跡」といわれてきたのは、近年の発掘調査の結果、実際よりもずいぶんとあとの時代にそう指定されたにすぎないことがわかった。しかしいずれにせよ、この名越周辺が北条氏ゆかりの場所であること自体は確かなようだ。
『吾妻鏡』には、源実朝がこの時政の名越邸で生まれたことや、比企の乱において比企能員が謀殺されたのもこの場所であることが記載されている。実朝の元服の儀式もこの館で行われた。時政の失脚後、この邸宅は義時が引き継ぎ、義時の子である北条朝時から始まる名越氏がここを本拠地とした。鎌倉の中心部から時政邸までは、徒歩で30分あまりの距離である。
北条氏の権勢を確立した北条義時、北条泰時の当時の邸宅は、先述した通り頼朝の大倉御所と鶴岡八幡との間にあったことが知られている。つまり鎌倉時代初期に起こった源氏一族の内部抗争や有力御家人の粛清は、ほとんどがこの鎌倉中心部の狭い一角で計画され、実行されたものだということだ。鎌倉エリア内でもし謀反の動きでもあれば、またたく間に多くの関係者の知るところとなる。要は、挙兵の準備や武器の調達などの怪しい動きを、狭い鎌倉の地で隠れて行うことなど、ほぼ不可能なわけである。
鎌倉時代初期の政変は、謀反の疑いがあるという讒言から始まっているものが多い。梶原景時の事件、比企氏の乱もそうである。しかし、謀反の具体的な証拠などはほとんど示されていない。よく知られている通り、実態のない謀反がでっち上げられ、多くの有力御家人が葬られていったということだ。その噂は、多くは北条政子やその関係者から始まっている。事件の捏造は対立する陣営が行うこともあったが、多くは北条氏側の謀略であったのである。
北条時政の長女・北条政子は源頼朝と結ばれ、頼朝は“鎌倉殿”へ、そして政子は“御台所”となる
北条政子は伊豆の豪族、北条時政の長女である。母は特定されていない。源頼朝と結婚するまでの期間について、確かな史料は存在していない。
そもそも時政以前の北条氏については、確かな情報はほとんどない。発祥は伊豆の韮山であり、平家を祖先にしていることは確かなようである。韮山には北条という地名があり、北条氏ゆかりの史跡が存在している。
北条時政は、伊豆の官職についていたが、大番役(朝廷の警備)のため在京中に政子が頼朝と結ばれてしまう。『吾妻鏡』によると時政はこの婚姻には反対していたが、最終的には認め、それ以降、北条氏は頼朝の重要な後援者となる。この決断が、のちに北条氏が世に出るきっかけとなっていく。
治承4(1180)年、後白河天皇の第三皇子、以仁王が平家打倒を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。伊豆の頼朝にも以仁王の令旨が届けられ、これに応じる形で頼朝は挙兵する。いくつかの戦いをへて、この年の10月に頼朝は鎌倉に入った。その後、関東地方を制圧、頼朝は東国の主となって鎌倉殿と称され、政子は御台所と呼ばれるようになった。
政子は頼朝との間に4人の子をもうけた。息子の頼家、実朝は成長して将軍に就任するが、いずれも非業の死を遂げた。さらに娘2人も若くして死去し、政子はすべての子に先立たれている。
実の子である2代将軍・源頼家と北条政子との対立…そして頼家は失脚し、比企一族は滅亡する
建久10(1199)年1月、頼朝が突然死去した後、長男の頼家が家督を継ぎ、政子は出家して尼御台と呼ばれた。幕府の支配構造は不安定となり、2代将軍頼家の乳母の一族である比企家の力が増大した。この時期、幕府中枢で起きた事件を見てみると、政子は実子である頼家と積極的に敵対し、彼を追い落とす役割を果たしていることがわかる。
同年、頼家が部下の御家人、安達景盛の愛妾を奪って寵愛するという事件が起きた。このとき政子は仲裁に動くのではなく、積極的に頼家の非を訴えた。景盛が怨んでいると知らされた頼家は兵を発して強引に決着をつけようとしたが、政子は両者の融和を図ることもなく、「まず私を殺せ」と頼家に挑発的な発言を行った。安達氏は頼家側の御家人であったため、政子は騒ぎを大きくし、頼家から離反させようとしたように見える。
この愛妾事件の直後、頼朝の側近であり頼家を支えた有力御家人のひとりである梶原景時が粛清された。政子の妹である阿波局の讒言をきっかけに、人望のなかった景時は他の御家人たちに弾劾され、翌年、鎌倉を去ることとなる。京都を目指した梶原一族であったが、静岡で戦闘となり、滅ぼされてしまう。
建仁3(1203)年、頼家は攻勢に出る。頼朝の弟でみずからの叔父であり、出家して真言密教の僧となっていた阿野全成を謀反の罪で捕えたのである。全成は北条政子の妹を妻とし、みずからの弟・実朝の後見人を務めていた。全成は常陸国に配流となり、まもなく殺害された。
頼家は全成の妻である阿波局も捕えようとしたが、これは政子によって拒否された。そもそもこの「阿野全成事件」についても、全成に実際に謀判の計画があったのかどうかは不明である。しかしともかくこの事件がきっかけとなり、北条氏は危機感をつのらせることとなり、これがさらなる悲劇を招くこととなっていく。
北条時政らは頼家の後ろ盾となっていた比企家の当主を謀殺し、比企一族を全滅させ、頼家の長子である一幡(政子の孫にあたる)も殺害する。さらに頼家を出家させて伊豆に追放し、その後暗殺したのであった。
『吾妻鏡』によれば、北条氏に不満を抱いた比企能員が北条時政討伐を企てたが、頼家と能員による北条氏討伐の密談を立ち聞きしていた政子が時政に報告。先手を打った時政は能員を呼び出して殺害し、さらに比企一族を滅ぼしたのだと記されている。
この密談は、当時の鎌倉幕府の文官トップであった大江広元の屋敷で行われていたという。しかし、当然ながら多くの人が出入りしていたはずであり、政子のみがこれを聞いたというのはきわめて不自然だ。実のところ、比企氏による陰謀など存在せず、比企氏の力が強大になることを恐れた北条氏が比企一族を滅ぼした、というのが真相であろう。さらに比企家に軍勢を派遣したのは政子であったことが『吾妻鏡』には記されていることから、比企の乱全体を主導したのは時政でも義時でもなく、政子だったのであろう。
3代将軍・源実朝の暗殺、源氏一族の粛清、そして北条政子は「鎌倉殿」へ
頼家の死後は、頼家の弟である実朝が3代将軍に就任した。しかし政治の実権は北条氏が握り、時政がその中心にあったが、実朝と政子・義時との間にはしばしば対立がみられた。
元久2(1205)年、政子は、時政の後妻である牧の方が、京都守護職の平賀朝雅を将軍にしようと陰謀を企てているとし、実朝をみずからの元に保護した。これをきっかけに時政は失脚し、その後は出家して表舞台から去っている。嫌疑をかけられた平賀朝雅は、京都で殺害された。
牧の方によるこのクーデター未遂事件も、実態が明らかでない。時政方が兵を動かした形跡はなく、政子による捏造の可能性が大きい。これ以後、北条義時・政子の姉弟が幕府の中心となった。有力者のこうした粛清が続き、建暦3(1213)年には、頼朝以来の幕臣であった和田義盛も追い込まれ、和田合戦で滅ぼされている。
将軍となった実朝は、朝廷を重んじて公家政権との融和を図った。ときの後鳥羽上皇も実朝を厚遇し、実朝は昇進を重ねた。しかし、こうした朝廷への接近は御家人たちの反感を買うこととなり、また北条氏とも対立していくこととなる。
建保7(1219)年、鶴岡八幡宮の式典において実朝は、甥で頼家の次男の公暁に殺害された。この暗殺の真相も明らかにされていない。公暁の単独犯行説もある一方、北条氏が黒幕であったという意見も認められる。公暁の襲撃前に身を隠した北条義時は、ことの起こることを事前に知っていたと考えられる。となれば、政子にも伝わっていた可能性は大きいだろう。
いずれにしろこの事件でもっとも利益を得たのは北条氏であり、これ以後、政子が実質的な「当主」の働きをすることとなった。実朝後継の将軍選びを仕切ったのは政子である。『吾妻鏡』では建保7(1219)年の実朝死去から嘉禄元(1225)年の政子死去まで、政子を「鎌倉殿」として扱っている。
さらに政子が行ったのは、源氏一族の粛清であった。頼家の遺児である四男禅暁は、公暁に荷担したとして承久2(1220)年に北条氏の刺客によって京で殺害された。さらに阿野全成の四男である時元も、政子の妹の子であるにもかかわらず、殺害されている。
貞応3(1224)年、義時が急死する。長男の北条泰時が後継者と考えられたが、義時の後室の伊賀の方は実子の北条政村の擁立を画策し、有力御家人の三浦義村と連携しようと企てたとされる。政子は義村の邸を訪ねて、義村が政村擁立の陰謀に加わっているか詰問したところ、義村は泰時への忠誠を誓ったという。この後、伊賀氏は伊豆へ追放された(伊賀氏の変)。
ところが、伊賀氏謀反については『吾妻鏡』には記載がなく、泰時も否定しており、これも政子がでっちあげた事件であると指摘されている。この事件にも謀反の痕跡はみられず、義時の死によるみずからの影響力低下を恐れた政子が捏造したものであろう。
北条政子のなかの恐怖、不安、怯えが彼女をパラノイアに導き、源氏一族を粛清させたのではないか
頼朝以前より源氏の一族は、親族あるいは一族での抗争をひんぱんに繰り返してきており、鎌倉時代の初期に繰り返された政変も、こうした一族の“血の因習”が拡大されたものだという見方もあるだろう。
しかしこれまでに述べた通りあらためて振り返ってみると、多くの「政変」「謀殺」は根拠のない讒言から始まっており、その大部分は北条政子かその周辺が発信源なのである。本文には記さなかったが、頼朝の弟である源範頼に謀反の恐れありとして殺害されたのも【建久4(1193)年】、政子の讒言がきっかけであった。
政子の標的は、対立する御家人だけでなく、源氏の一族、さらには自分の子ども、孫にも及んでいる。これは単に「政争」といってすむレベルではなく、政子は常に、ほかから攻撃される、危害を加えられて殺されるという恐怖心を持っていたように思われる。これはもう、被害妄想と呼んでいいものであろう。政子はまるで実態のないところに謀反のきざしがあると決めつけ、その敵を殲滅することを繰り返したのであった。
かつて、精神医学において「パラノイア」という病名が使用されていた。パラノイアとは、一定の妄想、たとえば根拠薄弱にもかかわらず、他人から常に攻撃を受けている、などといった被害妄想にとらわれてはいるが、それ以外の面では常人と変わらない……という疾患である。現在の診断基準では、妄想性障害に相当する。被害妄想以外にも、嫉妬妄想の頻度も高い。
北条政子の軌跡を振り返ってみると、彼女はパラノイアの症状を持っていたのではないかと考えると理解しやすい。パラノイアの根底にあるのは、恐怖と不安、怯えである。これが転じて他者への攻撃性となり、政子は身内を含め関係者を次々と亡き者としていったのだ。その不安は、彼女の死に至るまでおさまることがなかったようである。
源氏の血族に対する恐れはさらに強く、政子によって源氏の嫡流が断絶したのだ……といってもいいすぎではないだろう。
(文=岩波 明/精神科医)