政治家や官僚の「忖度」がともすると社会問題になるのは、「忖度」する動機に問題があるからだ。相手に申し訳ないとか、相手を傷つけたくないといった思いやりによって「忖度」するのではなく、「相手の要求を満たしておくと得をする」とか「相手の気持ちをくすぐっておけば、ものごとを自分にとって有利に運びやすい」といった利己的な動機によって「忖度」するときに、ついやりすぎてしまうといったことになりやすい。ときにそれが必要な手続きを省いたり、特別に基準を緩和したりといった不正行為につながる。
また、相手から「忖度」するようにと無言の圧力をかけられることも少なくない。権力を持つ側は、ただ「よろしく」のひと言だけで「忖度」を実質上強要することができる。ここで要求をのむわけにはいかない、そんなことをしたら不正行為に加担することになるといった葛藤が心の中に渦巻いたとしても、きっぱりと拒否することができずに、やむを得ず不正に手を染めてしまうようなこともある。
それは当然好ましくない「忖度」と言わざるを得ない。だが、「忖度」という心の働きそのものが悪いわけではなく、「忖度」の動機、そしてその結果として行われた行為が問題なわけだ。
仕事のできる人は「忖度」上手
相手の気持ちを汲み取るという意味での「忖度」は、日常生活で良好な人間関係を築く上で必要不可欠と言ってもよい。それはビジネスでも同じだ。仕事力のある人物は「忖度」上手なのに対して、「忖度」ができない人物は何かにつけて足を引っ張ることになりがちだ。
たとえば、会議室に入ったところでプロジェクターがないのに気づいた上司が、「会議室の準備をしておいてくれと言ったはずだが」と訝るのに対して、「はい、部屋の鍵を借りて、開けておきましたけど……」と、何が問題なのだろうといった感じで答える部下。そこで、「プロジェクターがないようだが?」と上司が言うと、「えっ? プロジェクターですか? それは言われてなかったので……」と慌てる部下。上司は、「そんなことまで、いちいち言わないとわからないのか」と呆れる。
段取りを考えれば何をすべきかわかるはずだから、察して自分から用意してくれるはず、わからなければ何か準備することがあるかと聞いてくるはず、と思っていたのに、その期待が裏切られる。文字通り、言ったことしかやっていない。「忖度」ができないのだ。
だが、部下の側は、「それならそうとハッキリ言ってくれればいいのに。非難がましい言い方だけど、言われてないんだから。なんか感じ悪いなあ」といった感じになる。その気持ちもわかるが、多少は想像力を働かすことも必要だ。実際、いちいち言わないとわからない部下より、上司の意向を「忖度」して動く部下のほうが重宝がられるし、好意的に評価されやすいので「忖度」できるに越したことはない。
「忖度」が求められるのはこのような場面に限らない。上司にも、取引先にも、ときにはっきり言いにくいこともある。今どき察するなんて無理だと言う人も、気まずくならないようにはっきりとは言わない場面もあるということくらいわかるだろう。
実際、言いにくいことをはっきり言われると誰でも傷つくわけだし、たとえば提出した書類に関して露骨に「ダメ出し」されるよりも、やんわりと言ってもらうほうが気持ちよく修正できるだろう。言いにくいことを言わなければならない側になったときも、相手にはっきり伝えて気まずくなるのは嫌だという思いになったりするはずだ。そうした場面では「忖度」を前提としたコミュニケーションが潤滑油の働きをする。
このように考えてみると、「忖度」する力を磨くことがビジネスには必要不可欠だということがわかるはずだ。自分はちょっと「忖度」力が低いかもしれないと思う人は、少しは「忖度」を意識しながら行動してみるのがよいだろう。
(文=榎本博明/MP人間科学研究所代表、心理学博士)