この年の3月21日、元号制の開始が全国に指令された。それにはきっかけがあったとされる。歴史書『続日本紀』はこの日付の記事として「対馬嶋、金を貢(たてまつ)る。元を建てて大宝元年と為す」と記す。対馬から日本で初めて金が産出し、これが献上されたことを祝って、元号を建て、すばらしい宝である金にちなんで、この年を大宝元年とするというのである。
実際には、たまたま金が見つかったからということで、いきなり初めて元号の使用が始まったとは考えにくい。当時の日本は中国を参考に、天皇制と官僚制を軸とする中央集権国家の建設を進めていた。元号の採用もその一環で、前々から準備されていたとみるべきだろう。大宝とはおめでたく華やかな元号で、第1号にふさわしく感じられる。
ところが、このエピソードには後日談がある。対馬から金が見つかったという報告は嘘だったのだ。『続日本紀』によれば、発見された金はじつは輸入品で、精錬業者と地元住民が共謀して「国内で産出しました」と偽って都に献上したという。
「大宝の年号制定に合わせるために、いろいろ無理をしたのであろうか」と歴史学者の鐘江宏之氏は著書『律令国家と万葉びと』で推測する。おそらくその見方は当たっているだろう。傍証となるのは、金発見の捏造に対する処分が書かれていないことだ。当時の政府は、金発見が嘘であることを承知のうえで、それを元号開始のきっかけとして利用したのだろう。今で言えば「やらせ」である。
この年、中国を手本に、わが国初の本格的な法典が制定された。のちに大宝律令と呼ばれる。その中で、公文書には元号を入れるよう定められた。地方の豪族の勢力を抑え、中央集権国家の基盤を固めたい政府にとって、元号の開始や、それが象徴する新しい国家体制(律令国家)に対する祝賀ムードを盛り上げることは、きわめて重要だったのである。
「一世一元」の背景
大宝以降、年を表記する際に元号を使うことは連綿と続き、現在に至る。その間、元号が政治的な駆け引きに利用されたケースは枚挙にいとまがない。
たとえば「辛酉(しんゆう)改元」の始まりである。元号が始まる以前から、年は「甲・乙・丙」などの十干(じっかん)と「子・丑・寅」などの十二支(じゅうにし)の組み合わせで表されてきた。全部で60通り。このうち辛酉(かのととり)の年は悪いことが起こるから、改元をすべきだと平安時代の漢学者、三善清行が言い出す。朝廷はこれを採用し、901年、「昌泰」から「延喜」に改元された。