だが、家族同士の殺し合いなどの現場として報道される容疑者の住む家をテレビで見ると、私はいつも不思議に思う。家がきれいなのだ。新興住宅地風の、新しくて、白くて、清潔な家だ。こんな家に住んで、どうして家族が殺し合うのか、こんな犯罪を犯す人々が住む家は、それこそ下町のバラックなら納得する、という差別的な固定観念が私の中にあるからだ。実際、私の子ども時代は、殺人、強盗というと下町が多かった(少なくともテレビ報道の記憶では)。
その常識が崩れたのが、1980年、東急田園都市線の一家で起こった、金属バット両親殺害事件だ。殺された父親は、旧財閥系の超優良企業に勤める東大卒のエリートサラリーマンだった。
象徴的に言えば、それ以来、陰惨な事件の現場が次第に下町から郊外の新興住宅地に移行していったような気がする。そして今はほとんどが新興住宅地のきれいな家が現場だ(これもテレビ報道を見る限りだが)。
今、下町のバラックが舞台の事件があるとしたら、独居老人の孤独死くらいであろう。それだって古くなった郊外住宅地の団地やマンションでもかなり多いのではないだろうか。
鬱積する負の感情を洗浄する
我々人間の身体は、一部のファッションモデルやアスリートたちなどを除けば、みな不格好である。まして我々の心の中は、美しくもなく、正しくもない。むしろ、ゆがんでいて、どろどろしている。怒り、恨み、哀しみ、寂しさ、切なさ、不安、絶望などの負の感情が鬱積している。
そういう人間にとって、「全てが計算され尽くした没個性的」な建築物は、本質的に合わないと私は思う。だが、「全てが計算され尽くした没個性的」な建築物の中で我々は「全てが計算され尽くした没個性的」な仕事をして働かなければならないし、「全てが計算され尽くした没個性的」な郊外ニュータウンの建て売り住宅やマンションを「全てが計算され尽くした没個性的」なローンを組んで買って住まなければならない。
そこに不満がたまる。それこそが、我々が知らぬ間に、古い下町や、バラック街や、ドヤ街や、闇市や、赤線地帯へと誘惑されてしまう心理の根底にあるものだ。そうした街に行かなければ、我々は我々の心に相応しい場所に出合えない。精神の均衡を保てないのだ。
とはいえ我々は、著者のように頻繁に街に出ることはできない。だから本書を読むことで街を訪ねた疑似体験をし、一種の心の洗浄をして、またつまらぬ日常に向かうのだろう。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)