内的報酬の大切さを説きながら洗脳する
定時に帰れることがない上に、休日出勤までしょっちゅうある。そのせいで私生活がないばかりか、慢性疲労に悩まされ、これではたまらないと上司に相談すると、
「その気持ちはわかります。でも、ちょっと考えてみてください。家でのんびり寛ぐほうが、そりゃ楽に決まってますけど、楽であればいいのでしょうか。苦しさを乗り越えるところに充実があり、その先に達成感が得られるのです。苦しいのはわかりますが、この仕事をやりがいのあるものにするために、もう少しがんばってみませんか」
などと言われる。
そう言われると、「疲れた」とか「私生活の時間がない」などといった不満を口にするのはみみっちい人間のすることのように思えてきて、文句を言いにくくなってしまった、という人もいる。
残業や休日出勤が多いだけでなく、残業代などの手当がちゃんと払われず、ほとんどサービス残業になっていることについて、上司に疑問をぶつけたところ、
「お金のために働くなんて、そんな虚しいことはありません。モノが溢れる豊かな時代になり、人々はモノやお金よりも心の充足を求めるようになっています。そこで大事なのは、給料のような外的報酬にこだわらずに、やりがいのような内的報酬を意識して働くことです」
と言われたり、さらには、
「それに、お金のために働くと仕事が好きでなくなることが、心理学によって証明されているのです。それをアンダーマイニング効果と言います」
などと科学的根拠を示され、専門用語を持ち出されたりすると、お金にとらわれている自分がちっぽけに感じられ、文句をつける気が失せた、と言う人もいる。
給料や昇進など、人から与えられる報酬のことを心理学では外的報酬という。それに対して、熟達感、成長感、充実感、達成感、使命感など、本人の内側から湧いてくる報酬のことを内的報酬という。そして、外的報酬を意識して働くことで、働く喜びが失われていくというアンダーマイニング効果は、実際に証明されている。
「お金のために働いてるんじゃなくて、仕事が楽しい。そう思いたくないですか。限界までがんばって、やり遂げたという達成感を味わう。そこに至るまでの忙しいときにも充実感が得られる。そんな働き方をしてみませんか」
などと高揚した調子で言われると、こちらの気分も高揚し、妙に納得してしまい、
「たしかにお金のためだけに働くのは虚しいかもしれない」
「充実した忙しい時間を過ごすのもいいかも」
「やり遂げたっていう達成感を味わうのもいいな」
などと思えてくる。それでもときどき、「これでいいのだろうか」といった疑問が頭に浮かぶこともあり、うまく言いくるめられた気もする。そんなふうに言う人もいる。
学生アルバイターや新入社員は、とくに注意が必要
このように心理学理論を持ち出し、不当な酷使に疑問や不満をもつ従業員を煙に巻く経営者が増えている。すでに学生時代からそうした搾取にはまっている人も少なくない。授業の中で内的報酬の話をすると、授業後に、
「バイト先の店長に言われたのは、まさにこれです」
「うちのバイト先の経営陣は心理学の理論を悪用しているとしか思えない」
などと言ってくる学生が少なからずいる。
具体的に聞いてみると、
「金のために働くだけなんて、虚しいと思わないか? もっとやりがいを求めないと」
「限界までがんばったときの達成感は、なんともいえないものがある。それが働く喜びってものではないのかな」
「お客さまの笑顔は、お金には換算できない、貴重な心理的報酬です。多少金銭報酬が少なくても、お客さまの笑顔に触れると幸せな気分になります」
などと言ってくるというのだ。
よく考えるといかがわしさ満載だが、心理学的には正しいことを言っている面もあり、素直で良心的な学生はすぐに騙されてしまう。
心理学理論をちらつかせる手法で不当に酷使されているのは、学生アルバイターだけではない。入社間もない新入社員などは、不当な労働条件で酷使され、「これはおかしい」「こんな待遇ではやってられない」と思うようなことがあっても、仕事経験が乏しく、自分の中にはっきりとした基準もなく、また早く仕事に馴染んで認められたいという思いも強いため、労働条件に文句を言うよりも、早く慣れて適応したいと思ってしまう。
それで、つい無理をする。「もう限界だ」と感じても、心理学理論を持ち出され、内的報酬の大切さを説かれたりすると、給料や勤務時間といった待遇を気にする自分はまだまだダメだ、働くこと自体にやりがいを感じられるようにならなければ、といった思いに駆られてしまう。
新入社員が過労により心身の不調に陥ったり、ときに過労死に至る背景には、そうした「やりがい搾取」の心理構造があるのではないだろうか。
(文=榎本博明/MP人間科学研究所代表、心理学博士)
※関連図書:榎本博明『自己実現という罠 - 悪用される「内発的動機づけ」』凡社新書