6月26日付のJBプレスでは、クラウドファンディングについて、英エコノミスト誌(6月16日号)からこんな翻訳記事を紹介していた。
「庶民が悪徳業者にカネを騙し取られることを心配する規制当局は果たして、一般大衆の参加を許すだろうか? (中略)一般大衆から資金を調達する企業に対してSEC(米証券取引委員会)が面倒な条件を課すのではないかと心配する声も上がっている」(「資金調達:クラウドファンディングの新潮流」)
この記事によると、「Kickstarter」の創業者であるヤンシー・ストリックラー氏は、「eベイでは、モノを不正に売るには1人騙せば済むが、キックスターターでは、数千人の人を騙さなければならない」と述べたそうだ。儲けたい立場としては、プロジェクトの閲覧者たちによるチェックが100%働くと期待したいところだろう。
だが、運営者自身がプロジェクトの内容を精査し、実態を把握するコストをかけなければ、プロジェクトの閲覧者が大人数だろうと、企業舎弟や悪辣な新興宗教などがいくらでも名義を変えて、巧妙にクラウドファンディングを悪用することを見抜くのは難しい。
クラウドファンディングの運営元には、普通の人にとって関心外にされやすい案件や社会的ニーズが小さい案件も、少なからず承認を求めてくる。そうした少数派を守りたいなら、プロジェクト内容の信憑性や妥当性、金銭が授受されることで起こり得る悪影響を逐次確認する手間は省けないはずだ。
そうした金の流れに無関心のままでいれば、phaさんの件以上に社会悪を撒き散らすことに発展するかもしれず、法的規制を招く要因になりかねないからだ。
だからこそ、国による法的規制が進められる前に、運営者自身がサービスの社会的価値を守るために審査基準を明快に発表し、どこにもやましさが紛れ込まないよう努力することが、果たすべき社会的責任(SR)ではないか?
プロジェクト成立後では、その金を約束通り使ったかを検証するコストまでかけられない。だからこそ、プロジェクト内容の表現に問題があれば、修正か却下して出資者に対するリスクを下げる努力をするのが、実際に取れる最低限の社会的責任だろう。
低所得者に対する本当の支援とは何なのか?
もちろん、どんなプロジェクトでも、それに共感して金を出す自由は誰にでもある。不景気が続く中、自営業でそこそこの収入を得る途中で「だるい」と感じてしまうのも、同時代に生きる多くの市民にとって理解できなくもないものだ。