庭では子どもが遊んでいたので、家じゅうの人が大騒ぎになっていた。すると大山がすっと立ち上がって「俺がいく」と庭に出ていったそうです。要は子どもを救えばいいのですが、なぜか彼はファイティングポーズをとってしまうんです。ゴリラはやる気はないのに。
すごいことに、大山は相手を倒せると思っているのです。たとえば、「懐がガラ空き」と見抜き、正拳突きを食らわせます。しかし、ゴリラはピクリともしませんでした。戦っていくうちに、大山は相手の弱点を見つけます。直立歩行では人間のほうが強いと感じ、よく見ると脚が弱そうだわかりました。そこでローキックを何度か繰り返し、弱ってきたところにヒザ蹴りを食らわせたところ、ゴリラが苦しんで自分の檻に帰っていったようです。これをもって、大山はゴリラに勝利したという話が広まりました。
「武」は「戈を止める」
次に闘牛と闘うのですが、大山は自分の限界を超え、人間の限界を超えていくという発想を持っています。その発想を平岡さんが端的にまとめています。
大山の発想は武道の「武」という一文字に込められている。この漢字を分解してみると、戈(ほこ)を止めると書いて武ができている。確かに「戈」と「止」で成り立っています。
極真空手は一撃必殺の技、最終的には人を殺す力、戈の力も持ちます。それは武道をやる人が追い求めるものです。しかし、それを自分の意思と判断でいつでも止められる力を持つということが「武」の真髄なのです。これが極真空手の精神なのだと平岡さんが『大山倍達を信じよ』(秀英書房)などに書いています。
これは案外大事かなと私は思います。普通、戦う人戈だけが目的になりがちです。戈によって戦い、勝ちを重ねていけば実績が積まれる、そしてなんらかの成果が積まれるわけです。
成功してお金が入ることもあるでしょう。普通ならそれで終わりかもしれませんが、大山が言う「武」とは、「戈だけでは意味がない。勝てる相手だけと戦っても意味はない。成果を上げることだけを考えるなら、弱い人たちとだけ戦っていればいい」と示唆しているのです。
「戦うこと=戈を持つことが、単に成果や実績だけを上げるだけなら、いつでも止めていい」
平岡さんは、このように大山の思想の神髄を紹介しています。ものすごく大事だと思うのは、これは武道家にとっては自分を殺すことでもあり、自分を解体する作業ともいえるからです。