米国籍を持っている子供でも強制収容所に隔離
最初のハワイ移民から5年後の1890年。いよいよアメリカ本土に日本人の集団移民が始まります。彼らは、アメリカの西部開発による鉄道路線拡張の労働者として、劣悪な条件の下、鉄道の線路を敷いていったのです。ちなみに、アブラハム・リンカーン大統領が「奴隷解放宣言」を行ってから30年近くたっていましたが、まだまだ有色人種に対する差別は根強く、1893年にはサンフランシスコ教育委員会は、日系人指定だった公立学校について、有色人種の入学を拒否する決議を採択したほどでした。当時の日本総領事・珍田捨巳氏の尽力により、その後撤回されましたが、そのくらい人種差別が激しかったのです。
それでも、日系人たちは日本人の美徳でもある勤勉さをもって努力し、家族を持ち、アメリカ生まれの子供たちを育てながら、生活を安定させていきます。そのようなときに起こったのが、日本による真珠湾攻撃です。
アメリカ人のなかにも、敵の日本人と一緒の場所で生活することに不安を覚える人たちも増えてきて、日本人排斥運動も盛んになるなかで、真珠湾攻撃から2カ月後、とうとうフランクリン・ルーズベルト大統領による「大統領令9066号」が発令され、「日系人保護」という名目で、西海岸地域に住む日系人全員、ハワイの日系人のなかで主だった人々11万人が、強制収容所に送られることになります。
そんななか、冒頭で触れたサカエ氏のような、幼い子供と両親が引き離されるようなことも普通に行われていたのです。第二次世界大戦中の日本人強制収容所を理解するのに大切な部分は、アメリカ国籍を持っていても、日系人であるというだけで財産や住居、自由を没収されて、強制収容所に隔離されたということです。
両親は、貧しいながらも生き生きと働き、家の中ではアメリカ国籍を持った子供たちが笑顔で遊んでいる。そんな小さな幸せが、ある日突然、たった数日の猶予だけで、今住んでいる場所から立ち退くように命令され、苦労して手に入れた財産も、多くを失うことになったのです。