米国民にも知られていなかった事実
僕は、収容所のひとつであるマンザナー強制収容所の跡地を訪れたことがあります。場所はカリフォルニア州ですが、砂漠のど真ん中でした。カリフォルニア州というのは、2つの顔を持っていて、西側は美しい海岸線や豊かな農場が広がっているのですが、4000メートル級の山々がそそり立つシエラネバダ山脈の向こうは、灼熱のモハーヴェ砂漠が広がっています。一度、飛行機で上空から、太平洋側で生まれた雲が、高い山脈を越えることができずにたまっているのを見て驚いたことがありますが、雨もめったに降らないそんな不毛の砂漠に収容所があるのです。そして、その周りには鉄柵と監視塔が並んでいました。
マンザナー強制収容所は、まがりなりにもアメリカ国籍を持った子供たちもたくさん収容していたので、アメリカ合衆国としても捕虜収容所とは位置づけておらず、ある程度の自由は許されていたので、逃亡できたかもしれません。ただ、運よく逃げ出せたとしても、一昼夜も過酷な砂漠を歩いて、やっと小さな村に行き着くような場所です。現実的には逃げることはできませんでした。この状況は終戦まで続くわけですが、やはり収容所で亡くなる方々もいました。その方々のための慰霊塔が、これまで自由な生活をしていた豊かな土地と、収容所のある砂漠を隔てているシエラネバダ山脈を背景に立っている光景は、本当に悲しく寂しいものでした。
1988年になってようやく、当時のロナルド・レーガン大統領によって謝罪されるまで、この事実はアメリカ国民にもあまり知られていませんでした。今もなお、知らないアメリカ人も多いですし、これを差別された負の歴史として、収容所を経験した日系人自身が話したがらないことも多かったのです。そして、同じく敵国であったドイツ、イタリア系移民には、このような処遇はなかったことからも、当時の日本人の悔しさを理解するのです。
僕は、戦争を経験したことのない世代です。世界のさまざまな国で指揮をしてきましたが、時には、日本との間に残念な歴史がある国で仕事をすることもあります。そんななかでいつも思うのは、僕は純粋に音楽だけをやっているつもりでも、相手は僕を通じて日本を見ているという事実です。10年くらい前になりますが、僕は当時指揮者を務めていたフィンランドのオーケストラの中国ツアーに同行する機会がありました。当時、日本と中国の関係は少し難しい時期で、フィンランドと中国の友好を願う演奏会を、日本人の僕が指揮をすることに実は不安を持っていました。そこで、現地の市のスタッフに自分の気持ちを、思い切ってぶつけてみたのです。同世代の男性でしたが、彼の答えは、「両国には、残念な歴史があった。でも今は、それを我々が乗り越えていくことが大切だと思います」というもので、僕は涙が出そうになりながら、彼と強く握手をしました。そして、どんな国であれ、これからも全力で指揮をしようと思ったのでした。
音楽には、すべての人々の心をひとつにする力があります。これについては、次回の連載で『第九』をテーマに書かせていただこうと思います。
(文=篠崎靖男/指揮者)