パッシンのお気に入りだったM果物店があるとき「Mフルーツストア」に変わっていた。あるスナックでは、「ミート・アンド・サラダ」を食べさせる。「だが、ミートと肉とはどう違うのだろう。カレーライスのなかに入っているビーフ、あれは牛肉とは本質的に異なる、なにものかであろうか?」。
「ミルクと牛乳は別物か? ポークとブタ肉ないしはトンとのあいだには差があるのか?」
「私にはベジェテブルと野菜の差がとんとわからないのである。」
「なかでも心乱れるのは、この豊葦原瑞穂国に住んでライスを食う感じである。私の友人の説明によると、レストラン(カレーライス店を含む)で皿に盛ったご飯をフォークで食べるときだけ『ライス』と称するのだというが、どうもそうではないように思う」
今やショッピングモールなどは、英語風カタカナのほうが日本語よりも多いくらいだ。食料品とか肉、ご飯といった日本語がなくなってしまったわけではないが、フード、ミート、ライスなど、当たり前のように使われている。ホテルなどで皿に盛ったご飯をフォークで食べるときでなくても、ごく庶民的な和風定食屋でも「ライス」と表示されていたりする。
これが「ご飯」とは別種の何物かであるわけがなく、紛れもなくふつうの「ご飯」である。べつにアメリカ産の「ライス」を出すわけでもなく、日本の田圃でつくられた米を炊いた「ご飯」を出しているにすぎない。それをわざわざ「ライス」と言い換える感受性。
パッシンは、どうして日本人がそんなことをするのか、答を出すのは心理学者の仕事だとしている。
刷り込まれる「英語はカッコイイ」「日本語はダサイ」という感受性
このように私たちの身の周りに増殖していく英語風カタカナは、けっして海外の人に向けてのものではなく、日本人に向けてのものと言わざるを得ない。
そこから窺えるのは、どうも私たち日本人の心のなかには、「英語はカッコイイ」「日本語はダサイ」といった感受性が潜んでいるのではないか、ということだ。
英語風カタカナは、いわば外来語を意味する。本来は、もともとそれに相当する日本語があれば日本語に翻訳し、日本語にないモノの名前や概念は翻訳しにくいため、外来語としてカタカナ表記をすることになる。アメリカになかった寿司や刺身が英語表記で「sushi」「sashimi」、甘えという心理的概念が「amae」と表記されるのと同じだ。
ところが日本では、もともと日本語があっても、わざわざ英語風カタカナにしたがる傾向があるのは、パッシンの指摘するとおりだ。それは、外国人からすると非常に滑稽で、不可解なようだ。
日本人が英語風カタカナを好むのは、コンプレックスの表れと考えられる。だが、そうしたコンプレックスを共有しない外国人の目には異様に映るのだ。なぜそんなことをするのかが不可解なのだ。
今や、店名や会社名、モノの名前だけでなく、日常会話のなかにも英語風カタカナが用いられるようになってきている。
「私は、その件には、まったくコミットしていません」
「もう一度、ゼロベースで考えてみましょう」
「先方からオファーがあったので」
「MTG、3時からでしたっけ?」
「次回の打ち合わせ、リスケしてもいいですか?」
お互いに日本人同士で、純粋に日本語で会話しているのに、こうした英語風カタカナを好んで使う風潮が、ますます強まっている。ふつうに考えれば、あまりに不自然なわけだが、それを不自然に感じない感受性が、けっこう多くの日本人の心に植え付けられているような気がしてならない。
英語風カタカナの氾濫の先にあるものは?
このような感受性は、海外流をやたら無批判に取り入れようとする心理傾向とも合致するものといってよいだろう。
そのような問題を考える際に、常々気になるのは、何かにつけて海外と違うと、「日本は遅れている」「日本はズレてる」といって、海外流に追随しようとする心理傾向だ。報道番組などで海外流が紹介されると、「そこが日本は遅れているんですね」といったコメントが続く、そんな光景をよく見かける。べつに遅れているというのではなく、ただ文化が違うだけ、ということが多い。
それにもかかわらず、「海外ではこうである。日本は遅れている」といった見当外れな発言が、いまだに無意識のうちに人々のコンプレックスに働きかけ、説得力を発揮している。
アメリカやドイツ、あるいはフランスやイギリスで、海外と何か違うところがあったとして、「自国は遅れている」などといって、海外流を慌てて取り入れようとするだろうか。単に「自分たちとは違うようだな」と思うだけなのではないか。
一例をあげれば、アメリカ流と違うからといって、年功賃金や終身雇用などの日本流を次々に崩し、成果主義を取り入れ、非正規雇用を増やしてきたが、アメリカ流によって苦しんでいるアメリカ人が非常に多く社会が混乱しているという現実からしたら、労働者の雇用と生活の安定を軽んじるのはいかがなものだろうか。
黒船来航以来、さらには敗戦以来の、日本人の心の深層に根づく欧米コンプレックスは根強いものがある。だが、もう少し地に足をつけて、コンプレックスに振り回されずに、冷静にものごとを判断するようになってもよいのではないか。
そのためには、まずは私たち日本人が無意識のうちにコンプレックスによって動かされていることを自覚する必要がある。「英語はカッコイイ」「日本語はダサイ」といった感受性をいつの間にか植え付けられていることを自覚しておく必要がある。
2020年の東京五輪を意識してか、日本語廃止、英語化推進の動きにますます拍車がかかっている感もある。スポーツの祭典のため、海外からの観光客との交流のために、自国の文化まで変えてしまおうなどという国が他にあるだろうか。それで独自な魅力を発する国になれるだろうか。
こうした動きはいったい何を意味しているのか。この国はどこを目指しているのか。この先に何が待っているのか。じっくり考えてみる必要があるだろう。そこで思い出されるのは、三島由紀夫が自決する4カ月ほど前に新聞に寄稿した「果し得ていない約束 私の中の25年」のなかにある、つぎのような言葉だ。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、ある経済的大国が極東の一角に残るであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」(産経新聞1970年7月7日付夕刊 表記を一部修正)
(文=榎本博明/MP人間科学研究所代表、心理学博士)