神戸教員間いじめ、ストレス充満の教育現場の構造的問題…傍観した同僚も校長も“共犯者”
加害教諭を擁護するつもりは毛頭ないが、教育現場にストレスが満ちあふれていることは、私の外来を受診した教師からしばしば耳にする。まず、教師に理不尽な要求を繰り返し、少しでも気に入らないことがあると校長、さらには教育委員会にまで苦情を言うモンスターペアレンツへの対応に忙殺される。おまけに、教材の準備や書類の記入などで長時間労働を強いられるうえ、持ち帰り仕事も多い。
そういう職場環境で怒りを覚えても、怒りの原因をつくった張本人である親や校長、教育委員会や文部科学省などに怒りをぶつけるわけにはいかない。だから、怒りをため込むしかないが、怒りは排泄物と同じで、どこかで出さないと心身に不調をきたす。そのため、方向転換して、より弱い相手に怒りの矛先を向けるわけである。
このように怒りの矛先を向け変えることを精神分析では、怒りの「置き換え」と呼ぶ。一連のいじめの被害に遭った男性教諭は、この怒りの「置き換え」によってターゲットになったと考えられる。
見て見ぬふりをする「傍観者」
何よりも深刻だと私が思うのは、「いじめられてないよな」と被害教諭に言った前校長をはじめとして、見て見ぬふりをする「傍観者」が東須磨小学校には多かったことである。
いじめは、いじめっ子(加害者)といじめられっ子(被害者)の二者関係だけで起こるわけではなく、いじめをはやし立てて面白がって見ている「観衆」と、見て見ぬふりをしている「傍観者」も加わった四層構造で起こる(『いじめとは何か』)。
この「傍観者」に同僚も現在の仁王校長もなっていたように見える。まず、複数の同僚教員がいじめに気づいていたにもかかわらず、すぐに学校側に報告したわけではなく、教頭に相談したのは今年6月に入ってからだった。いじめの報告が遅れた理由について、複数の同僚教員は「4人の中にリーダー的な存在の教諭がいたので、いじめを言い出すことができなかった」などと説明している。
また、現在の校長も、相談を受けた後、聞き取り調査を行い、被害教諭がロール用紙の芯で尻が腫れ上がるほどたたかれたり、車の上に乗られたりしていたことを把握したものの、4人の加害教諭に口頭注意しただけで、市教委には「人間関係のトラブルがあったが解決した」とのみ報告していた。
同僚は自分がいじめのターゲットにされるのが怖くて、現在の校長は市教委から管理能力を問題にされるのが怖くて、見て見ぬふりをしたのだろう。いずれも自己保身のために「傍観者」に徹したわけである。
このような「傍観者」が増えるほど、いじめは起こりやすいし、激しくなりやすい。前校長も現在の校長も、そして同僚も、今回のいじめの“共犯”と言っても過言ではない。
(文=片田珠美/精神科医)
【参考文献】
森田洋司『いじめとは何か』(中公新書) 2010年