さらに1915年、当時の大出版社、博文館の専属の車屋・小沼金次郎が森ヶ崎に旅館「大金」を開業。博文館の文芸誌「文章世界」の編集長・加能作次郎の紹介で、作家たちがしだいに「大金」に訪れるようになった。小沼は「文士たちを心の底から理解し、女中たちまで心得て、文士たちが執筆のため徹夜するというと、何をいわれなくても、夜食の用意をしてくれたというので、多くの文士たちが訪れ、長期滞在した」。芸妓の源氏名も独特で「メロン」とか「ヨット」といったものが多かったというから面白い(『大田区史』下巻、『大田区史 資料編 民俗』参照)。
米兵相手の慰安施設
戦後、大井海岸の料亭が歴史に残る存在になった。米軍の進駐に備え、日本政府が米兵の性欲処理のためにRAAをつくった。RAAとは、レクリエーション・アンド・アミューズメント・アソシエーションのことであり、要するに米兵を女性で慰安する組織だった。日本語では「特殊慰安施設協会」といった。特殊ということは、特殊浴場と同じで、ただの慰安ではない。性を売ったのだ。日本は江戸時代来、吉原を公的な売春施設としてきたが、戦後も国が一般女性の貞操を米兵から守るという理由でRAAをつくったのだ。その第1号が「小町園」だったのである。
RAAは広告を打った。「新日本女性に告ぐ! 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む! ダンサー及び女事務員募集。年令十八歳以上二十五歳まで。宿舎・被服・食糧全部支給」。敗戦後まもない8月23日のことである。
焼け跡で仕事も食べ物もない女性たちがどんどん集まった。女性たちは新橋にあるRAA本部で、大事業とは売春であると知らされ仰天した。だが食うためには仕方なかった。
米軍が上陸する8月27日までにRAAは1370人の女性を集めた。その9割は裸足でやってきたという。ほとんどが素人娘だった。女性たちのうちまず50人が小町園に送り込まれた。小町園の前には朝からすでに米兵のジープが行列をなしていた。
開店すると、米兵たちが土足のまま障子やふすまを蹴破ってドッと上がり込んできた。米兵の巨体に驚いた女性も多かった。恐怖におびえながら、女性たちは米兵の相手を無我夢中でした。午後の閉店までに、ある女性は23人の相手をしていたという(猪野健治『東京闇市興亡史』参照)。
このように、上流階級のための丘の上の景勝地と、海岸沿いの素人娘たちとの階級格差はあまりにも激しかった。料亭街のあった地域は、今は第一京浜沿いにマンションが建ち並ぶだけであり、往時のにぎわいも、女性たちの嘆きもなかったかのようである。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)