東京・八王子、国家的売春施設で栄えた負の歴史…日本政府が女子を集めて米軍兵相手に売春斡旋
一方、飯盛り旅籠は1873年には「貸座敷」と名を変えた。94年には正式に「八王子遊廓」と指定されて不夜城のように栄えた。貸座敷の収入は八王子の税収を潤わせた。1891年の税収の内なんと29%が貸座敷によるものであった。
ところが97年に大横町から火事が出て遊廓は焼失した。そこで遊廓は元横町の田んぼをつぶした土地に移転した。これが「田町遊廓」であり、遊廓らしく1地域に限定された。貸座敷の数は14〜20軒。娼妓(売春をする女性)は100人ほどだった。
昭和初期(1930年頃)の地図を見ると、ほぼ長方形の遊廓の南側に、料理屋萬とく、西洋料理喜らく、好華園、小平蕎麦店、寿々松、歌の家、蓬莱、洋食福松、好月、割烹若松楼などの飲食店らしき名前が見え、それと混じって、織物工場、絹機械製作所、機業工場、撚糸工場などが多数見える。
そして第二次大戦後の一時期には、RAA(レクリエーション・アンド・アミューズメント・アソシエーション)が設立された。日本国政府が一般婦女が暴行を受けることを防ぐためにつくった特殊慰安施設、つまり売春施設をつくるための協会である遊廓は、米軍軍人によって独占された。とはいえ米兵相手に売春をするとは知らずに集められた女性も多い。自国の女性を使ってこうしたことをした日本政府が、占領国で他国民の女性を使って同じことをしなかったとは思えないが、どうだろう。米兵たちはトラックに乗って遊廓にやってきて、遊廓から八王子駅北口までの1kmほどに及ぶ行列をなしたという。
だが性病の蔓延のためにRAAは半年で廃止され、遊廓は日本人向けの赤線となったのだった。2年前に訪ねた田町には、元遊廓と思しき廃墟のような建物が一つ残り、その隣に、これも元遊廓なのだろうか、木造建築をリノベーションしたカフェができて普通の女性客などで繁盛している。
女性の悲しい歴史の上に、新しい時代がある。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)
参考資料
わだち編『八王子遊廓の変遷』かたくら書店、1989
八王子郷土資料館『八王子の産業ことはじめ』2014